8-4 三十三間堂の焼亡と再建

三十三間堂は鎌倉中期の再建
三十三間堂は鎌倉中期の再建

 

百花さん さっき、「自分に似た像が1体ある」って聞いたことがあるって言ったけど、それ以前にこの観音さまたちって互いにそっくりさんだよね。

ゆいまくん うん、確かにほとんど同じような姿形でつくられているね。だからこそ群像としてのまとまりがあるし、まとまっていることが迫りくる力そのものでもあるというわけだよね。
 材質はヒノキ * で、像高は170センチからおよそ180センチに揃えてつくられているんだ。頭上に面や結った髪をのせているから、そこは除いて髪際から足までを測ると150センチ余りとなり、現代の成年よりはやや小柄といえるけど、仏像のサイズでいうところの「等身」の像ということになるね。頭上の十一面の配置も皆同じだよ。
 どの像も動きを抑えて、落ち着いた雰囲気を出している。下半身が細く長い分、頭はちょっと大きめに感じるね。目は細め、ほおは自然な曲面によってつくられているよ。ほぼ直立の姿勢で立ち、衣の線は浅く穏やかな調子で彫り出されているよね。脇の手はやや縮こまり気味で、これは群像として並べられるという条件のためにそうなっているのかもしれないね。
 ということで、どの像もほとんど同じ…なんだけど、でもね、じっくり拝見するとまったく同じというわけではないとわかってくるんだよ。
 じゃあ、個別に見ていくことにしようかな。まず、平安時代の像から…

百花さん …まず、平安時代の像から? ここに並んでいる仏像は平清盛が後白河院のためにつくったんだから、みんな平安時代の像じゃないの?

ゆいまくん あ、しまった。大事なことを話すのを忘れていたよ。
 実は鎌倉時代のちょうど真ん中くらいの時期に京都で大きな火災があってね、三十三間堂は焼けてしまうんだ。だから、今私たちがいるお堂はその後に再建されたものなんだよ。

百花さん えっ…、てっきり平安時代に創建されたままと思って話を聞いていたよ。早く言ってよね!

ゆいまくん …ごめん。
 鎌倉時代になると中国から新しい建築様式が入って来たりもしたんだけれど、このお堂はそうした最新の形を取り入れるよりも、古い様式を大切にして再建されているんだ **。火災で失われる前のお堂をできる限り忠実に再現したいという考えがはたらいたんだろうね。
 ところで、その火災でお堂は全焼してしまったんだけど、安置されていた仏像のうちの一部は取り出されたんだ。

百花さん 取り出されたってことは、大火事の現場で仏像を救い出した人たちがいたってことね。すごいね。命がけだね。

ゆいまくん 救い出された創建時の像は100体余りで、そこに800体以上の像が新たにつくられて、合わせて千体千手観音の群像が再現されたんだ。鎌倉時代に新たにつくられた像は、救出された平安時代の像にならってつくられたから、このお堂には平安時代の像と鎌倉時代の像が混在しているわけだけど、両者はちょっと見ただけではまったく見分けがつかないんだ。

百花さん 一般的に、平安時代の後期・末期の仏像は繊細で優美さが特色で、それが鎌倉時代になると力強く写実的になるっていうことだったよね。でも、三十三間堂の鎌倉時代の像は、時代の特色は抑えぎみにして、創建時の像にひたすら合わてつくられたんだね。だから、これらの像はまるで創建以来何ごともなかったかのように、こうして立ち並んでいるんだ。すごいな、昔の仏師! これぞプロの仕事って感じね。
 ところで、鎌倉時代の再建の時に中心になった人物は誰だったの?

ゆいまくん じゃあ、三十三間堂の創建から再建にかけての話を順を追ってしていくね。

百花さん あ、ヤバいぞ。これは長くなるヤツだ。なるべく手短にね~って、聞いてないし…

ゆいまくん 後白河院のために平清盛が三十三間堂をつくったのは、長寛2年12月(今の暦に直すと1165年1月)のことだよ。ちなみに、後白河院はこの時40歳の手前、清盛は50歳前という年回りだったんだ。
 こののち、平氏の勢力はぐんぐんと増して、ついには政権を担当するに至る。いうまでもなく、平氏政権だね。しかし、1180年より治承・寿永の乱、つまり源平の争乱が勃発し、大黒柱である清盛が死ぬことで平氏の凋落はいよいよ明らかになり、ついには都を追われてしまうんだ。かわって源氏の木曽義仲が入京したのち、法住寺合戦 *** によって後白河院の御所である法住寺殿は焼かれてしまう。でも、この時は三十三間堂は類焼を免れた。さらに、1185年には畿内を大きな地震が襲ったんだけど、三十三間堂は倒壊したり火災にあったりすることはなかったんだ。
 鎌倉時代に入り、1247年から1249年にかけて、三十三間堂は大規模な修復が施された。創建から100年近くがたって、修理が必要なところがあちこちに出てきたんだろうね。工事は順調に進んで、完成式典を待つばかりという時のこと。あろうことか京都市中で大きな火災が発生し、三十三間堂も焼け落ちてしまったんだ。大火の中で中尊は失われたんだけど、千体の千手観音立像の一部は救い出されたというのは、さっき話したよね。
 焼けてしまった三十三間堂を復興させたいと情熱を燃やしたのが、当時院政を行っていた後嵯峨上皇という人だよ。上皇は三十三間堂に対して並々ならぬ関心と信仰があったようで、大火の際には居ても立ってもいられず様子を見に出たが、近寄ることができなかったと伝えられているんだ。

百花さん 後嵯峨上皇…はじめて聞く名前だわ。大混乱の中、危険も顧みずにお堂のことを心配して町へ出ようとしたなんて、信仰心が篤い方だったのね。

ゆいまくん 三十三間堂が焼亡したその翌日、早くも再建の話が始まったんだけど、当初議論は進まなかったらしい。もはやこの時代は、院政期のように有力者が院や朝廷のために進んで造寺造仏を行うといった状況にはなかったからね。しかし、15年以上の歳月をかけて、ついにもとのお堂と同じ規模・内容での再建が果たされたんだ。

百花さん すごいなぁ。もはや執念って感じね。でも、今こうしてこの三十三間堂の仏さまたちに会えるのは、後嵯峨上皇が諦めずに再建を願ったおかげでもあるのね。
 仏像の方は? その時中心となって活躍した仏師は誰だったの?

ゆいまくん 中尊の千手観音坐像をつくったのは湛慶だよ。湛慶は、あの有名な運慶の長子とされている仏師なんだ。1251年にこの像の制作に取りかかった時、もう79歳だったんだが、3年間をかけて完成させたんだ。像高3メートル半もある、力強さと品格をともに備えた鎌倉時代を代表するすばらしい仏像だよ。
 中尊像の完成後、湛慶は東大寺講堂の仏像再興の担当に転じるんだけど、完成させることなく、1256年に86歳で亡くなったんだ。
 三十三間堂の仏像がすべて揃い、完成式典が行われたのは1266年のことだよ。後嵯峨上皇はこれを見届けたのち出家し、数年後に亡くなったんだ。


(注)
* 千手観音立像は寄木造または割矧(わりは)ぎ造でつくられている。割矧ぎ造は、一木で制作し、その途中で前後に割って内ぐりののちにまた矧ぎつける技法である。なお、寄木造の像にも、頭と体の中心部分を前後左右の4つの材を合わせてつくられているものと、前後2材によってつくられているものがある。

 

** 細かに見れば、鎌倉時代初期に宋からもたらされた大仏様という建築様式の影響が見てとれるが、全体的には伝統的な様式によってつくられていると言ってよい。


*** 法住寺合戦は、後白河法皇と対立した木曽義仲がおこしたクーデタ事件。法住寺殿を襲い、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉した。