8-2 千手観音は最強の変化観音

三十三間堂拝観入口
三十三間堂拝観入口

 

百花さん 三十三間堂の駐車場だ。見覚えある。懐かしいなー。
 でも、国宝になった仏像を訪ねるのよね。ここの仏さま、とーっても有名なのに、最近まで国宝じゃなかったってこと?

ゆいまくん 三十三間堂にはたくさんの仏像が安置されているけど、指定文化財としては4件にくくることができるんだ。
 まず、中尊の千手観音坐像。お堂の中央に座っているひときわ大きな千手観音像だよ。
 次は、お堂の最前列に並んでいる二十八部衆という仏教の守護神たち。千手観音の眷属(けんぞく、付き従うものたち)で、28体で1組になっていて、これが国宝1件として指定を受けているんだ。この二十八部衆像の左右の端に安置されている風神像、雷神像が、この2体で国宝1件。ここまでの3件は、ずいぶん前に国宝指定されているんだよ(中尊の千手観音坐像は1951年に国宝指定、二十八部衆像と風神・雷神像は1955年に国宝指定)。
 最後に、ずらりと立ち並んでいる千手観音立像。全部で1001体あり、これが4件目なんだ。三十三間堂というと、このたくさんの像を思い浮かべる人が多いと思うけど、意外なことに近年まで重要文化財指定で、2018年なって国宝指定されたんだ。

百花さん 1000体…じゃあなくて、1001体なんだ。半端な数なのはどうして? あ、「101匹わんちゃん」なんていうのもあるしね、そういうのが逆にいいのかも。

ゆいまくん …

百花さん とにかく、1001体もあるのに、文化財としてはそれで1件として数えられているわけね。そして、中央にある大きな千手観音坐像と二十八部衆、風神・雷神像は先に国宝になっていて、1001体の千手観音像が最近になって国宝となったということね。
 ところで、千手観音っていうくらいだから、手がいっぱいついているのよね。

ゆいまくん 観音菩薩は数ある菩薩の中でも早くに成立し、現在に至るまで広く信仰を集めてきた仏さまなんだ。阿弥陀如来の脇侍として阿弥陀の慈悲をあらわすはたらきをしている場合もあるし、単独でまつられることも多い。
 また、観音は時と場所、相手に応じてさまざまな姿となって助けを求める人々を救うとされ、多面多臂(ためんたひ)の変化(へんげ)観音としてあらわれたり、さまざまな姿をとって、助けてくれたりもするんだ。

百花さん 観音さまは菩薩の代表選手で、姿を変えるのが得意技ということね。そういえば、興福寺南円堂の本尊も不空…なんとか観音っていったんじゃなかったっけ。

ゆいまくん 不空羂索(けんさく、けんじゃく)観音だよ。3つの目、8本の手を持っていたよね。そういった超人的な姿は、強大な救済力を象徴しているということだね。

百花さん 特別な姿にすることで、ぱっと見でもすごい!ってわかるしね。千手観音は千も手を持っているわけだから、きっと私にも手の1本くらいは差し伸べてくれるに違いないって思えるもんね。

ゆいまくん 千手観音は千の手を持つだけじゃないよ。その千の手のてのひら1つ1つに目があって *、どんなことも見逃さないし、それぞれの手はさまざまな救済のための道具を持っているんだ。また、頭上には11の面があって、すべての方向に心を配っているんだ。
 千手観音は、別名、蓮華王ともいうんだ。蓮華は悟りの象徴なので、蓮華王というのは仏・菩薩の中でも格別な救済力をもつ頼もしい仏さまということだね。三十三間堂というのは通称名で、本当の名前は蓮華王院本堂というんだよ(なお、現在は三十三間堂は東へ300メートルくらいのところにある天台宗の門跡寺院、妙法院に属している)。

百花さん その最強の千手観音を1000体もならべるなんて、救われたいというとっても強い願いがあってつくられたんだろうね。
 ところで、ここには後白河院の御所があったんだよね。で、このお堂も後白河院がつくらせたってことは… もしかして御所の中につくられたお堂だったのかな。

ゆいまくん そうだよ。三十三間堂は後白河院の御所、法住寺殿の仏堂だったんだ。

百花さん 1000体の仏像をまつったプライベート礼拝堂… すごすぎる。
 ということは、後白河さんもこの中に自分に似た顔立ちの観音さまはいないかな~って探したかもね… って、んなわけないか。

ゆいまくん …実はね、1000体の観音像をまつったのは、三十三間堂がはじめてではないんだ。後白河院の前に院政を行っていた鳥羽院のためにつくられた得長寿院(とくちょうじゅいん)観音堂にも、1000体の観音像がまつられていたんだよ **。三十三間堂と同様のつくりだったみたいだけど、安置されていたのは千手観音像ではなく、聖(しょう)観音像(2臂の観音菩薩像)だったんだ。つくられたのは1132年、しかし1185年に京都を襲った大地震で倒壊してしまい、その後再建されることはなかったんだ。

百花さん そう…、じゃあ、今は見ることはできないのね。

ゆいまくん 得長寿院とそこにまつられた千体仏は、平忠盛(ただもり)が鳥羽上皇に造進、つまり造ってさしあげたものだったんだ。
 平安時代の後期・末期には、お堂や仏像などをかわりにつくって差し出したり、朝廷の儀式の費用を肩代わりしたりして、ほうびとして官職が得られるということが行われていてね、これを成功(じょうごう)といったんだ。財力があって高い位でない者は、そうやって地位を得ていったわけだね。
 平忠盛はその功によって御所への昇殿 *** が許され、貴族の仲間入りを果たした。武士出身の忠盛が昇殿を許されたことに対し貴族たちが嫌がらせをする話が『平家物語』に出てくるよ。その忠盛の子が平清盛なんだ。

百花さん あ、有名な人だよね。たしか、武士出身ではじめて政権を担当した人じゃなかったっけ。

ゆいまくん 父の忠盛が得長寿院の千体仏を鳥羽院に造進したように、清盛は三十三間堂を後白河院につくってさしあげたんだ ****。これによって清盛は、父が築いた院政との結びつきをさらに強固なものとしたということだね。

百花さん えー、それじゃあ、三十三間堂は後白河院がつくらせたというのは、実際には清盛がつくって献上したってことなのね。でも、忠盛も清盛も地位を固めたり、上昇させたりすることを目的に仏さまをつくったということになるのか…それって、ちょっと不純なんじゃない? 三十三間堂の建立は千手観音への強い信仰のあらわれであると同時に、政治的な思惑もからんでいたってことなのね。なんだかなぁ…


(注)
* 千手観音は正式には千手千眼(せんげん)観世音菩薩という。なお手の数は、仏像では省略形として42本の手であらわす場合が多く、三十三間堂の千手観音像も42本であらわされている。42本の配置は、正面に合掌する2本、お腹のあたりで鉢を持つ2本、残り脇手が左右に19本ずつとなる。多くの場合、19本の脇手は、前列6本、中列7本、後列6本でつくられるが、三十三間堂の像の場合、前列7本、中列6本、後列6本となっている。前から見ていっそう華やかに感じられるようにと考えてのことかもしれない。

** 平安時代を通じて1つの堂に同一尊の彫像を千体まつりった例としては、次の4つが有名である。①得長寿院観音堂(平忠盛造進、千体の聖観音をまつる)、②白河千体阿弥陀堂(堂は清盛造進、像は鳥羽院がつくらせ、その死後美福門院などが補った)、③三十三間堂(蓮華王院本堂)、④法住寺殿内につくられたもう一棟の千体観音堂(1176年供養。三十三間堂よりも小規模であり小千手堂ともよばれる)。①②④は現存していない。また、史料をつぶさに見ていくと、このほかにも例がある。このような同一尊の大量造像のルーツは中国・五台山の「一万文殊」の信仰にあり、宋の仏教文化の受容という文脈で考えるべきとの指摘がなされている(『平安仏教彫刻史にみる中国憧憬』)。

*** 昇殿(しょうでん)とは、天皇の日常の御座所である内裏の清涼殿南側の殿上の間に昇ることを許されること。平安時代中期以後、昇殿を許された殿上人(てんじょうびと)と許されない地下(じげ)の役人層という身分制が発生した。

**** 三十三間堂が清盛の造進であることは広く知られているが、実はその根拠となる史料は多くない。清盛の造進であると明確に書かれた史料としては、鎌倉時代前期の『愚管抄』が唯一のものである。上級官人の職員録である『公卿補任』には「院御願蓮華王院造作国司国盛」の譲りによって平重盛(しげもり、清盛の子)が正三位に昇進したと書かれている。国盛については不詳。清盛の誤記か。そうであったとしても、清盛が造進したのはお堂なのか、お堂と仏像の両方であるのかは明確でない。

 

京都市左京区岡崎徳成町にある得長寿院跡の碑
京都市左京区岡崎徳成町にある得長寿院跡の碑