上島普門院観音堂の十一面観音像
成人の日、5月3日に開扉
住所
辰野町上島2305
訪問日
2019年5月3日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
上島(かみじま)普門院観音堂は、中央本線辰野支線の信濃川島駅下車、南へ徒歩10~15分。
十一面観音像は秘仏で、かつては60年に一度の開帳だったという。現在は成人の日と5月3日の1年に2度開帳されている。6人以上であればその他の日も対応してくれるそうだが、個人で拝観するためにはその2日のどちらかに行く必要がある。
問い合わせ先は、辰野町教育委員会教育委員会文化係。
拝観料
志納
お寺や仏像のいわれなど
普門院という名前がついているが、寺院というよりは地域のお堂として存続してきたようである。現在も辰野町上島地区の方々が管理されている。
お堂は1931年の再建。本尊の十一面観音像は収蔵庫に安置。
十一面観音像は像内に墨書と納入品があり、また台座にも銘(ただし台座は焼失、写しが残っている)があって、造立の経緯についてかなりよくわかっている。
伝来の過程で移転や災害などがあったにもかかわらず、保存状態はきわめて良好。両足先と手の指や衣の一部は後補。
拝観の環境
5月3日の10時すぎに着いたところ、すでに扉が開かれていて、拝観させていただくことができた。
扉口からの拝観だが、庫内は明るく、よく拝観することができた。
仏像の印象
像高は約90センチの立像。カヤの割矧ぎ造。檀像風の像である。
プロポーションがたいへんすばらしい。顔は小さく、下肢は長い。全体に細身につくられている。
顔つきは、玉眼がすずやかである。若干目は釣り上がりぎみにして、眉はあまり高々とはあげず、鼻の上部で両方の眉がつながる。そして顎をしっかりとつくる。独特の風貌である。若々しさと意志の強さが感じられる。
肉体表現は自然で、誇張を避ける。胸の厚み、お腹の丸み、手の長さ、腰のひねりは、いずれも控えめで、無理のない姿といえる。
しかし、衣の部分はきわめて大胆である。ひだの刻みは非常に多く、複雑である。特に布がたたまれたり、折り返されたりして、にぎやかに刻まれている。一部は体の左右から角のように突き出して、それがいくつも続いているためにリズムを生み出され、その一方で下肢では衣がゆったりとたるんで、太いひだがいくつも刻まれる。布に余裕があるのでゆったりと着ているのだが、それが複雑に折りたたまれるなどして、緊張感のある反復となっているところがとても新鮮である。
作者と造像主について
銘文などから、作者は善光寺仏師の妙海という人であること、つくられたのは鎌倉末期の1323年、つくらせたのは地元の武士、宮所孫次郎光信であることがわかる。
妙海はその名乗りの通りであれば、信濃の善光寺に属して、近隣の仏像の修復を行ったり、新造の依頼があればそれに応えたりしていた在地の仏師と思われる。実際に彼の作品は本像のほか長野県内に数躰伝わっていて、それらは仁王像や薬師如来像の脇侍像である。その中で、この観音像が特にすぐれた出来映えということだ。本像が一堂の本尊であるということから、作者としても最大限の意気込みで臨んだのかもしれない。
他の像は見ていないので、比較はできないが、この十一面観音像がたいへんすぐれた像であることは間違いがない。
この像をつくらせた宮所光信は、信濃の名門諏訪氏の一族であったようだ。
南北朝時代に北条高時の遺児時行が反乱を起こし、一時は鎌倉を占領するものの、足利尊氏に敗れる。この乱の際、宮所氏は時行側に立ったようで、それにより一族は離散の憂き目をみたという。
この観音像としては、つくられてまもなくに外護者を失ってしまったことになる。
しかしこの像の保存状態は上述のようにとてもよく、宮所氏が去ってのちも大切に守り伝え続けられたことがわかる。近代以後も2度大火にあっており、その難をのがれ、このように美しい姿で今に伝えられていることは奇跡的である。
さらに知りたい時は…
「仏師と仏像を訪ねて18 妙海」(『本郷』151)、武笠朗、2021年1月
『辰野町上島 重要文化財 木造十一面観音立像 奉賛と保護のあゆみ』、辰野町上島区、2019年
「ほっとけない仏たち25 妙海作の十一面観音像」(『目の眼』493)、2017年10月
「仏師善光寺妙海はなぜ注目されるのか」(『めくるめく信州仏像巡礼』、信濃毎日新聞社、2015)、伊藤羊子
『長野県史 美術建築資料編 美術工芸』、長野県、1994年
『長野県の国宝・重要文化財 美術工芸編』、長野県教育委員会、郷土出版社、1990年