遍照寺の大日如来像
運慶五代、仏師康誉の作
住所
真岡市中2402
訪問日
2023年5月13日
この仏像の姿は(外部リンク)
とちぎの文化財・木造大日如来坐像
拝観までの道
遍照寺は、栃木県東南部の真岡(もおか)市にある寺院。
最寄り駅は真岡鉄道線の寺内。下車後、西へ徒歩35分くらい。
駅前にタクシーは常駐しないが、看板が出ていて、呼べばすぐ来てくれる。(遍照寺まで1600円くらい)
事前にお電話を入れたところ、いつでも大丈夫、説明もしますとご住職はおっしゃっていたが、法事などの場合もあると思うので、あらかじめご都合をお聞きして行くのがよいと思う。
拝観料
志納
お寺や仏像のいわれなど
真言宗寺院。南北朝時代創建と伝えるが、実際にはそれをさかのぼる可能性もある。もと現在地の北東にあり、今の場所は藤原氏からわかれた中村氏の本拠地だったらしい(中村城あと)。境内は広く、南側の参道は長い。四季の花が咲き、また、数百年の樹齢のある立派なカヤの木(県の天然記念物)がある。
古記録では、16世紀なかばに遍照寺は焼けて再興されたといい、その際に現在の場所に移ったのかもしれない。
戦国期には古河公方や結城氏といった実力者が祈願したり保護した記録があり、このお寺の格式の高さがわかる。
拝観の環境
本堂内で拝観させていただける。
仏像の印象
本尊の大日如来像は、像高約50センチの坐像。
像底部に朱漆で銘文がある。それによると、作者は「運慶五代の孫」である法印康誉で、1346年2月の開眼という。
どしりと存在感ある像である。比較的大振りな頭部、太い二の腕、条帛を広めにしてたすきにかけ、下肢も大きく、衣も厚手の布感があり、ひだも深く刻む。顔つきは目は細く、目と眉の間が狭く、口は小さめにして口角をあげず、ほおがのっぺりと長く感じられる。やや個性的な顔立ちであるが、じっくりと拝観させていただくと、次第に柔和な表情にも見えてくる。
智拳印を結ぶ手は、少し上方に引き上げられながら、胸に近づけ、威厳を示す。
仏師康誉について
康誉の名がはじめて登場するのは、1310年の銘記のある大分市の金剛宝戒寺釈迦如来立像の銘文である。この像の作者は法印湛幸(湛康)で、康誉はその助作者として名を連ねており、この時法橋であった(ただし文字は干割れのために読みにくくなっているが、おそらく幸誉であり、康誉のことと考えられている)。
遍照寺の大日如来像は康誉の最後の事績であり、これが1346年であるので、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、35年間以上の長きにわたって活躍した仏師ということになる。
遍照寺の像の銘文には「運慶五代の孫」とあるが、試しに運慶以後の各代の代表的仏師をあげてみると、まず運慶の次世代(第2世代)はその長子の湛慶、第3世代の代表は晩年の湛慶を助けた康円である。金剛宝戒寺の釈迦如来像をつくった湛康はさらに次の世代(第4世代)の仏師である。湛康との血縁の有無はわからないが、康誉はこの湛康の工房から出て、運慶第5世代の仏師として活躍したものとみられる。遍照寺の大日如来像の銘の「運慶五代の孫」とあるそれぞれの代が誰をさすのか実際のところは不明であるが、世代的にはよく符合しているといえるだろう。
運慶の流れを汲む仏師は、京都の七条に仏所を構え、東寺大仏師という職を継承していったが、時代が進んでいくと、仏所の継承や東寺大仏師職の就任をめぐって、その後裔を名乗る仏師らによる対立がおこっていく。康誉は1338年に東寺大仏師職を得ているが、相論を経てのことであったことがわかっている。
さらに知りたい時は…
「仏師と仏像を訪ねて23 康誉」(『本郷』156)、山本勉、2021年11月
『日本美術全集』7、小学館、2013年
『運慶流』(展覧会図録)、佐賀県立美術館・山口県立美術館、2008年
『南北朝時代の彫刻』(『日本の美術』493)、山本勉、ぎょうせい、2007年6月
『日本中世の仏師と社会』、根立研介、塙書房 2006年
『日曜関東古寺めぐり』、久野健・後藤真樹、新潮社 1993年
『真岡市史』6、真岡市史編さん委員会、1987年
→ 仏像探訪記/栃木県