大円寺の清凉寺式釈迦像

  正月、4月8日、甲子の日に開扉

住所

目黒区下目黒1-8-5

 

 

訪問日

2008年1月3日、 2013年1月3日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

目黒区ホームページ・指定文化財

 

 

 

拝観までの道

目黒駅から西へ数分のところ、行人坂の中ほどにある寺である。

門を入ると左側にずらりと石仏が並ぶが、これは江戸時代、この寺から出火し大火災となった江戸後期の行人坂火事の犠牲者を弔う目的でつくられたものという。

 

本堂の左手の耐火建築の小さなお堂に釈迦如来像が安置されている。普段は扉を閉めているが、1月1日から7日までと4月8日、2ヶ月に1度の大黒天のお祭り(甲子祭)の日、11月初旬の東京文化財ウィークの期間、そして年越しの日(12月31日の23時から1月1日の未明2時まで)に開扉される。

 

 

拝観

なし

 

 

お寺や仏像のいわれ

大円寺(大圓寺)は天台宗寺院。開創は江戸初期である。修験行人派という宗派の本山として、寺の行者がさかんに行き来したことから、門前の道に行人坂という名前がついたというほど、一時は栄えた。しかし明和9年(1772年)の行人坂火事の火元であるとして、江戸時代末期まで数十年もの間再建が許されなかったという。

 

本堂はこのお寺が再興を許された、19世紀半ばの建築。

本堂に向って左手の収蔵庫(釈迦堂)に、釈迦如来像が安置されているが、この像が大円寺にもたらされたた経緯は不詳。

 

この像は1958年に解体修理され、その際造像時のものおよび江戸中期の修理時の納入品がともに見つかった。江戸期の修理銘札には鎌倉の杉本寺の別当の名があり、この像はもと杉本寺の仏像であったことが推測される。

江戸時代の史料によれば、杉本寺には「天竺仏の釈迦」が安置されているとあり、その像はもと北条泰時が父義時追福のために鎌倉の釈迦堂谷につくられた釈迦堂の本尊であったと述べられているが、それがこの像である可能性がある。

 

 

拝観の環境

堂の入り口のガラス扉ごしの拝観。背後がガラスに映り込み、また像までの距離がやや遠い。また、像の前の台やご供物で膝より下は見えないなど、やや拝観しにくい。

年越しの日は別として、定められた日には8時から17時まで開扉される。お正月の開扉期間、16時半から17時の間にうかがうと、暗くなりかける時間のためにガラスの映り込みが緩和され、像の雰囲気がわかりやすくなるので、お勧め。

 

 

仏像の印象

カヤの割矧(わりは)ぎ造りで、等身大の立像である。

本像は清凉寺式釈迦像、すなわち平安時代にもたらされ京都・清凉寺にまつられているうつし身の釈迦そのままという像の模刻像である。こうした像は関東でもいくつかみられるが、大円寺の釈迦像は早い時期(鎌倉初期)の優れた出来栄えの像として知られている。忠実な模刻である一方、鎌倉期の彫刻らしい充実感に満ちている。顔の輪郭や体のすっきりした線、目やほお骨の生気ある様子、衣がくっきりとした襞をつくっているさまなど、すばらしい。

 

造立時の納入品としては、鏡と3枚の墨書紙片が見つかっている。鏡には1193年の年が線刻され、鏡や紙片には丹治氏など造像の中心になったと思われる人物名が見える(これらは解体修理後、像内に戻されている)。

 

 

その他

本堂内に十一面観音立像(平安時代、一木造)が安置されているが、一般個人の堂内での拝観は不可とのこと。本堂前のお賽銭箱のところからかろうじて上半身が見える。

この像はもと、近隣の明王院から移されてきた像という。

 

実は、18世紀後半の火災の際、大円寺の仏像は救出されて無事であったが、お寺の再建が許されなかったので、仏像は風上側にあって類焼を免れた明王院に仮安置されたという。

ところが近代に入り、今度は明王院が廃寺となってしまい、大円寺に吸収されるかたちで、この十一面観音像などが大円寺に移されたのである。

明王院があった場所は、現在雅叙園となっている。

 

 

さらに知りたい時は…

『関東の仏像』、副島弘道編、大正大学出版会、2012年

『日本彫刻史基礎資料集成 造像銘記篇 鎌倉時代』1、中央公論美術出版、2003年

『日曜関東古寺めぐり』、久野健ほか、新潮社、1993年

『檀像』(展覧会図録)、奈良国立博物館、1991年

 

 

仏像探訪記/東京都