赤岩寺の愛染明王像
小愛染像が納入されている

住所
豊橋市多米町赤岩山4
訪問日
2009年11月14日
拝観までの道
赤岩寺は豊橋駅の東、5、6キロのところにある。
駅前から赤岩口行きの豊橋鉄道東田本線で終点下車。この鉄道は路面電車で、全線150円と安く、乗り心地がよい。終点の赤岩口駅で降りて、そのままさらに東へ進むこと約20分。多米という交差点のすぐ北側に赤岩寺の門が見える。
ここは静岡県との県境に近い。さらに東へ3、4キロ行った多米トンネルを抜けると静岡県湖西市である。東海道線や国道1号が通る海寄りは古代には湿地だったそうで、赤岩寺やその南東の普門寺の方を通る道がよく使われていたらしい。
また、多米交差点付近には「赤岩」というバス停があり、豊橋駅前から赤岩口行きの豊鉄バスがここを通る。本数は1時間に2本程度。
→ 豊鉄バス
拝観料
志納
お寺のいわれなど
寺伝によれば奈良時代に行基が開き、平安前期に空海の弟子によって再興されて真言宗となったという。鎌倉時代に三河の守護となった安達氏により堂宇が整えられた三河七御堂のひとつとも伝える。
江戸時代には豊橋の殿様(三河吉田藩)の尊崇を受けた。特に寺内の愛宕権現社には勝軍地蔵尊がまつられ、武士による信仰が厚かったという。
このお寺はかつては法言寺といったらしい。愛宕権現社のある切り立った岩が赤色であることがら赤岩山と称したが、江戸時代に寺社奉行が間違えて赤岩寺と記録したために、以後赤岩山赤岩寺と名乗ることになったとのこと。
拝観の環境
このお寺には鎌倉時代の愛染明王像が伝わっている。本来愛染堂の本尊であったが、現在はその奥の収蔵庫に安置され、事前申し込みで拝観できる。 庫内は明るく、すぐそばよりよく拝観できる。
また、愛宕権現社にあった勝軍地蔵像もこの収蔵庫内に移されている。
以前は、11月23日前後に寺宝展が開かれ、その際に仏画や古文書も拝観できたが、そのメイン会場であった客殿が2011年夏に焼失してしまった。
*知人からの情報では、現在(2016年)は個人の拝観は11月23日のみ可能とのこと。
仏像の印象
像高は約1メートル。寄木造。保存状態はよく、彩色は一部残る
見開いた目、上向きの牙、鼻や額のごつごつしたような表し方など力強い。目は、顔の3つの目だけでなく、獅子の冠の目にも玉眼が使われていて、像のもつ迫力をいや増している。
しかし一方で、どことなく童子のようでもある。顔は丸く、怒りの表情も子どものそれのようにも感じる。胸・腕の豊かな肉づけも幼児の丸々した体つきを連想させる。
鎌倉時代の愛染明王といえば、神護寺の康円作の像や西大寺の善円作の像、あるいは五島美術館の像など、隙のない怒りの表現のものが思い浮かぶが、本像はそれらとは違った味わいで、見飽きない。
腰は絞り、脚部はしっかりと三角形を形成していて安定感がある。
条帛の端の前に下がる布の質感や足の裏の造形感覚はみごとと思う。
台座は近世の補作だが、光背は当初も作。
獅子冠の上の五鈷鉤が銅製であるのは珍しい。
納入品について
愛染明王像は戦前に大規模な修理が行われ、この時にかつての修理時(17世紀)に納入された文書および愛染明王の小像104躰が像内より見つかった。この愛染明王小像は像高4センチほどのもので、獅子の冠の中に納めれられていたという。
平安時代後期の貴族の日記の中に、百躰の愛染明王の絵や像を供養したといった記事が見え、その信仰がいかにさかんであったかを知ることができるが、本当に多数の愛染像が伝わった例はない。しかしこの像内の104躰の小像の存在は、そうした「多数尊制作」の系譜を引くものとして注目される。
これら小像は像内に戻されたので実見は不可能だが、写真は残っている。
さらに知りたい時は…
『愛知県史 別編 文化財3 彫刻』、愛知県史編さん委員会、2013年
『豊橋の寺宝Ⅱ 普門寺・赤岩寺展』(展覧会図録)、豊橋市美術博物館、2002年