西郷寺の一鎮上人像

6代遊行上人の生き生きとした肖像

住所
尾道市東久保町8-40
 

訪問日 
2024年11月3日


この仏像の姿は(外部リンク)
住友財団・ 2011年度 文化財維持・修復事業助成・木造一鎮上人坐像



拝観までの道
西郷寺(さいごうじ)は尾道駅から市民病院行きおのみちバスで「防地口」下車。北へ徒歩約5分。
拝観は事前連絡必要。


拝観料
志納


お寺や仏像のいわれなど
瑠璃山の麓にある時宗寺院。かつては入江が今よりも深く入り、西郷寺のある高台からは尾道の町と海が一望できたという。もと西江寺と号した。

尾道と時宗の関係は、時宗の祖、一遍が諸国遊行の途中、1287年に尾道で草庵を結んだことに始まる。以後この地域には時宗の寺院が多く作られたが、中でも西郷寺は中心的な役割を担い、多くの子院や末寺を持つ寺であったという。しかしその後の時宗の退潮、さらに明治政府の政策のために寺域は縮小され、末寺もその多くが廃絶し、現在は1か寺が残のみとなっている。
しかし、狭くなってしまったとはいえ境内は美しく整えられ、特に本堂前の桜の美しさは格別で、かつて国鉄のキャンペーンポスターともなった。また、地元大学の先生の作品や学生さんによる七福神像が境内に置かれて人気を博するなど、地域の結びつきの一端を担っている。

西郷寺の草創は、正慶年中(1332-1334年)、時宗の6代遊行上人一鎮(いっちん)によるとされる。7代託阿(たくあ)上人によって本堂が作られ、その年代は当寺に伝わる棟札の写しによれば1353年だが、完成をみたのは1406年と考えられている(屋根瓦のヘラ書きから)。現存する時宗の本堂の最古例である。
その特徴としては、住宅建築風であること、鏡天井(板をシンプルに横に並べた形式)で、内部は基本板敷(一部畳を敷く)、内陣は縦長平面で、脇陣を広く取っている。外陣との境は区切るが、内陣、脇陣、外陣の間は開放的、連続的である。内陣で踊念仏が行われた際、周囲に聴聞衆が集まり一体感を持てるよう工夫されている。


拝観の環境
一鎮上人像は内陣に向かって右側の脇陣に安置されている。
外陣からの拝観なので、お像までの距離は少し遠い。


お像の印象
一鎮上人像は像高約80センチの坐像。寄木造、玉眼。一鎮は南北朝時代の1355年に亡くなっているが、この像はそれ以前、生前につくられた寿像と考えられている。
お堂は西面しているので、南側からの光が入り、写実性豊かな肖像彫刻の名作であることが見て取れる。
ほぼまっすぐ前を向き、目はしっかりと開き、下がり気味のまゆ、ほおや口もと、のどの様子など、実に生き生きした表情である。大きな体つきで、黒系に塗られた衣をまとっている。衣は自然な流れを作り、脚部は微妙な凹凸を作り出す。
合わせた手の高さや手の角度も自然で、本当にそこにお上人さまがいらっしゃって合掌されているように感じられる。


その他(本尊について)
本尊の阿弥陀三尊像は、本尊、脇侍とも立像で、中尊は来迎印、脇侍の観音像は蓮弁を持ち、勢至菩薩は合唱する。来迎する弥陀三尊の姿である。足利尊氏の念持仏との伝承がある。
像高は中尊が約1メートル、脇侍は約70センチ。ヒノキの寄木造で、玉眼。
厨子中に安置されているため暗く、また垂れものもあり、拝観位置からは距離もあるため、よく見ることは難しい。写真で見ると中尊は品のある穏やかな像で、脇侍は腰をかなり強く折り、丸顔、高髻で、裙の衣の線は賑やかである。

2013年からの修理で脇侍像から発見された納入品に、1285年の年と橘吉近の名前、また、父母への孝養のためとする願意が書かれていることが知られた。橘吉近は西郷寺にほど近い浄土寺の整備に努めた光阿と同一人物と考えられ、鎌倉時代後期にこの地域で活動した有力者と思われる。


さらに知りたい時は…
『国宝一遍聖絵と時宗の名宝 時宗二祖上人七百年御遠忌記念』(展覧会図録)、京都国立博物館ほか、2019年
『新尾道市史 文化財編』上、尾道市市史編さん委員会、2019年
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』13、中央公論美術出版、2017年
「時宗肖像彫刻の像主について―遊行六代一鎮上人像をめぐって」(『造形と文化 美術史論叢』、雄山閣出版、2000年)、薄井和男


仏像探訪記/広島県