普門寺の薬師如来像と地蔵菩薩像
3月の最後の日曜日に開帳
住所
山梨市牧丘町西保下3631
訪問日
2013年3月31日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
JR中央本線の山梨市駅より山梨市民バス西沢渓谷線で「窪平(くぼだいら)」乗り替え、同牧丘循環線で「城下」または「小田野」下車。
普門寺のある旧牧丘町は、南の甲府盆地から北の長野県へと続く急峻な山々との間の傾斜地に広がる町である。標高は600メートルくらいで、果樹園農家が多い。
甲府盆地の先、さらに南には富士山がそびえ、境内から一望できるらしいが、私が訪れた日はあまり天候がよくなく、見ることはできなかった。
市営バスは便数が多くないので、筆者は行きはバスを使い、帰りは甲州市の放光寺まで歩いた。帰りは下り坂だが、1時間弱かかった。
普門寺では、ご本尊の薬師如来像を毎年3月の最後の日曜日に開帳している。
事前に問い合わせたところ、ご開帳は11時ごろから14時頃までとおっしゃっていた。
この日、ちょうど11時くらいに普門寺に到着すると、すでに地域の方が大勢集まって、開帳行事をお待ちになっていた。子どもたちの姿も多く、見ると手に手に袋を持っている。
薬師如来像は本堂前の小さな収蔵庫に移されているため、その前でご法要が行われる。
導師が出座されて開扉、読経、焼香ののち、「投げ餅」となった。お餅やお菓子が威勢良く撒かれると、大人も子どもも競って拾う。子どもたちが袋を持っていたのはこのためであった。とてもにぎやかなで、ほほえましいご開帳だった。
拝観料
特に拝観料の設定等はなかった。
お寺や仏像のいわれなど
もと真言宗だったらしいが、近世より曹洞宗となり、現在に至る。
すぐ西には、標高900メートル弱の小田野山がある。
この小田野の山を要害の城としたのは、甲斐源氏の安田義定である。源義家の弟義光の流れを汲み、武田氏や加賀美氏とは同族。
源平の合戦において、安田義定は源義経の副将として西国を転戦するが、平家滅亡後、源義経や源範頼がそうであったように、頼朝の猜疑心のために死に追いやられる。
普門寺は寺伝によれば、安田義定が創建したお寺であり、終焉の地でもあるという。
本尊は行基菩薩の作と伝え、もと33年に一度の開帳仏であったそうだ。
拝観の環境
餅投げの行事のあと檀家のみなさんは総会のためにご本堂にお入りになり、境内が静かになったところで収蔵庫の仏さまの拝観ができた。
庫内には、中央に薬師如来像、向って左側に地蔵菩薩像(延命地蔵)と、2躰の仏さまが安置されている。
照明はないが、外からの光が入って、よく拝観できた。
仏像の印象
本尊の薬師如来像は、像高約80センチの坐像。サクラの一木造で、背ぐりをする。
手先や脚部は後補。
頭部は小さめで、肉髻と地髪は連続する。目はくっきりとはつくらず、まぶたのふくらみと目の下のくぼみによってあらわす。鼻、口は正中線から外れるが、これはそうした歪みのある特別な材を用いたためなのかもしれない。
胴体は堂々として、姿勢よく、また胸の厚みをよく表現している。どことなくエキゾチックな雰囲気も漂わせている。
平安時代中期から後期ごろの作と思われる。
地蔵菩薩像は像高90センチほどの立像で、一木造。内ぐりなく、また背中はきれいに仕上げずに木の材質がそのままに残されているという。素朴ともいえるが、薬師如来像と同様に霊木のような特別な木材を使った仏像であったのかもしれない。造像年代も薬師如来像と同じ頃かと思われる。
衣文線も複雑な山・谷を設けず、単純な線で構成されている。
面長の顔、肩、胴体、腕など、美しい曲面で構成されて、心惹かれる像である。
さらに知りたい時は…
『山梨市史 文化財編』、山梨県、1999年
『牧丘町誌』、牧丘町誌編纂委員会、1980年