大善寺の鎌倉仏

  13世紀の日光、月光菩薩像と十二神将像

住所

甲州市勝沼町勝沼3559

 

 

訪問日

2008年10月4日、 2013年11月24日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

大善寺・文化財・寺宝

 

 

 

拝観までの道

大善寺の秘仏薬師三尊像の項を参照してください。

 

 

拝観料

500円

 

 

お寺や仏像のいわれ

大善寺の創建は寺伝では奈良時代というが、平安時代前期に当地の豪族によって造られたと考えるのが妥当であると思われる。

鎌倉時代に入ると幕府の保護を受けるようになり、13世紀前半には幕府の支援のもとでの勧進活動によって堂塔の修復や仏像の造立が行われ、寺運が隆盛であったことがわかる。本堂の十二神将像はこのときの作である。また、「新仏」の丈六の薬師像があったとされるが、それもこの時期の作である可能性が高い。

 

鎌倉時代中期の1270年に本堂は焼け、その後1291年に再建されたものが現在の本堂(薬師堂)である。この時も幕府が援助を行った(鎌倉幕府が援助したことが明確に分かっているお堂で現存するものは、この大善寺本堂だけなのだという)。

この1270年の火災で「新仏」の薬師像は焼けてしまったが、脇侍は焼け残ったらしく、それが本堂に安置されている日光、月光菩薩像であると考えられている。

 

その後も、戦国大名の武田氏や徳川幕府によって保護された。十二神将像の彩色は、武田信玄によって補修されたときのものである。

 

 

拝観の環境

本堂内は明るく、内陣まで入れていただけるので、よく拝観できる。

 

 

仏像の印象

本尊厨子の左右に立つ日光、月光菩薩像は像高約250センチの大きな像である。前述のように、1270年の火災で焼亡した丈六薬師像の脇侍と考えられている像である。ヒノキと思われる材の寄木造で、玉眼。

顔は卵形で、髪や衣の襞(ひだ)は装飾性が強い。日光菩薩の額の上の髪の豊かな編み方など、とてもおしゃれにつくる。下半身は裙を2段に大きく折り返した上に、腰布もつけている。細身の体を少し弓なりにし、腰はくびれ、襞の線は強く刻むなど、個性的で魅力ある像と思う。

 

十二神将像は像高140センチ内外で、近年の調査時に江戸期の彩色を取り除いたところ、武田信玄によって補われた赤を基調とする鮮やかな彩色が現れた。

向って右側から子、丑の順に並んでいるが、寅の神将像の像内より1227年の年記と作者名として「大仏師南京三川公蓮慶」の名前が見つかっている。南京は奈良をさし、慶の字がつく名前を考え合わせると、蓮慶はもともと奈良を本拠地としてきた慶派の仏師であると推定できる。蓮慶の作品としてはこのほか、同じ山梨県内の福光園寺の吉祥天像・両脇侍像がある。また、「三川」は三河のことと思われるが、『吾妻鏡』1240年の条に4代将軍藤原頼経が三河法橋を招いて御所の持仏堂の像を造らせたという記事があり、この仏師と同一人物である可能性がある。

いずれにしても、運慶・快慶の次の世代の慶派仏師の作として大変貴重である。

破綻なくまとまり、それぞれに異なるポーズをとる。やや画一的な印象はあるが、見開いた目の表情、怒りに逆立つ髪、しっかりと身にまとった鎧など、なかなかの出来映えである。

午神将は極端な痩身で、個性的な顔立ちをしている。この像は他の像と異なり一木造で、補作と思われる。

 

*日光、月光菩薩像は、2010年から2カ年かけて修理が行われた。日光菩薩像の像内からは納入品として印仏が発見されている。堂内に写真展示されている。

 

 

その他

本堂に向って右側の高台にある行者堂に安置されている役行者像も鎌倉期の作。役行者像としては早い時期の造像であり、等身大、写実的で魅力ある像である。ガラス越しの拝観。像まで距離があり、一眼鏡のようなものがあるとよい。

 

 

さらに知りたい時は…

『生身と霊験 宗教的意味を踏まえた仏像の基礎的調査研究』(『東国乃仏像』三)、有賀祥隆ほか、2014年

『大善寺日光・月光菩薩像』(展示パンフレット)、山梨県立博物館、2012年

『大善寺(山梨歴史美術シリーズ2)』、山梨歴史美術研究会、2008年

「新指定の文化財」(『月刊文化財』525)、2007年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇4』、 中央公論美術出版、2006年

「大善寺日光・月光菩薩像及び十二神将像について」(『甲斐の美術・建造物・城郭』)、鈴木麻里子、岩田書院、2002年                                                     

「新指定の文化財」(『月刊文化財』429)、1999年

『山梨県史 文化財編』、山梨県、1999年

 

 

仏像探訪記/山梨県