随心院の金剛薩埵像
快慶晩年の造像
住所
京都市山科区小野御霊町35
訪問日
2011年2月13日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
京都市営地下鉄小野駅から東南東へ約10分。醍醐寺三宝院も近い(徒歩10分くらい)。
拝観料
400円
お寺や仏像のいわれなど
10世紀末、祈雨法に長じた真言宗僧、仁海(にんがい)によって曼陀羅寺という寺が開かれた。随心院(ずいしんいん)はその子院であったが、鎌倉時代に入って門跡寺院となり、大いに栄えた。
京都の他の多くの寺院同様、このお寺も応仁の乱で灰燼に帰し、その後寺地を転々としたが、江戸時代に入る直前に現在の地で再興された。
このお寺には3つのみどころがある。
ひとつは門跡寺院らしい建物のたたずまい。門跡寺院とは皇室や摂関家から住職が入る寺格の高いお寺のこと。大小の建物が連結し、それぞれの建物にはみごとな襖絵で囲まれた部屋が続く。いかにも格式あるお寺の雰囲気を実感できる。
次に、小野小町伝説にいろどられたお寺であるということである。この随心院のあるあたりは小野という地名が残り、古代の名族小野氏ゆかりの地であるという。古くは遣隋使の小野妹子、平安時代に入ると能書家の小野道風や伝説に彩られた不思議な人物である小野篁、そして小野小町。境内には小町ゆかりという井戸などが残されている。
そして最後に平安時代〜鎌倉時代にかけての仏像の拝観ができる寺であるということである。
本堂の本尊は如意輪観音像。その向って右側に快慶作の金剛薩埵(さった)坐像が安置されている。
拝観の環境
仏像は本堂の奥の壇上に1列に並んで安置されているが、拝観できる場所からは距離があり、堂内は暗く、また帳が垂らされ頭頂部が見えないなど、やや見にくい環境なのが残念。
仏像の印象
金剛薩埵はあまり聞かない、どちらかといえばマイナーな仏さまと思うが、密教では重要な仏である。普賢菩薩と同一ともいう。
像高約1メートル、ヒノキの割矧(わりは)ぎ造、彫眼(瞳は漆を薄く盛り上げて表現されているという)。
左手で持つ五鈷鈴は左脇腹前に、右手で持つ五鈷杵は手首をひねって胸前に構える。
全体に大人しいつくり。左右の手のバランスは、小材をはさんで調整しているらしい。やや線が細い感じは否めないが、上背があるので、堂々としているようにも感じる。
快慶の銘は、像内の背部中央、黒漆塗りの上に朱書しているという。簡単に「巧匠法眼快慶」とのみ記し、造像年などは書かれない。
当時有力な仏師には、法橋、法眼、法印といった位が与えられたが、快慶は極位である法印には登ることができず、法眼どまりであった(運慶は法印になっている)。快慶の法眼叙位は1208年、没年は1227年くらいであることが分かっているのでこの像がつくられたのはこの間である。
随心院は承久の乱によるものか、1221年に焼けているので、その後の復興期につくられた仏像である可能性がある。そうであるならば、快慶最晩年の作ということになる。
その他
本尊に向って左側には平安時代後〜末期の阿弥陀如来坐像が安置されている。定朝様の仏像で、この像と快慶作の金剛薩埵像は重要文化財指定を受けている。
本尊の如意輪観音像は鎌倉時代の作。ややつり上がり気味の目、目の下から頬にかけてふくよかに張りがあり、個性的な顔の像である。6本の腕はそれぞれ無理なくゆったりと構える。
平安後期以後、天皇の護持僧が行う修法の中に如意輪観音を本尊とするものが加わる。本像が門跡寺院である随心院の本尊であることを鑑みると、この像のもと、こうした重要な法会が行われたことも十分考えられる。
さらに知りたい時は…
『月刊文化財』681、2020年6月
『快慶』(展覧会図録)、奈良国立博物館ほか、2017年
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』4、中央公論美術出版、2006年
「京都随心院の快慶作金剛薩埵像」(『日本彫刻史論叢』所収)、西川杏太郎、中央公論美術出版、2000年
『仏師快慶論(増補版)』、毛利久、吉川弘文館、1987年
『解説版 新指定重要文化財3、彫刻』、毎日新聞社、1981年