福田寺の諸像
平安仏を伝えるお寺
住所
京都市南区久世殿城町5
訪問日
2020年2月9日
この仏像の姿は(外部リンク)
福田寺ホームページ
拝観までの道
福田寺(ふくでんじ)は東海道線の桂川駅、向日町駅から徒歩約15分。桂川駅からは東南、向日町駅からは東北に位置し、新幹線の高架をくぐるとすぐ。
京都駅前からバスの場合は、市バス42号か78号に乗車し、「中久世」下車。
拝観は事前連絡必要。
拝観料
志納
お寺や仏像のいわれなど
福田は福徳が生み出されること、仏法が豊かに実りを迎えることを田にたとえて述べた言葉である。今では日常的には用いられることはほとんどないが、かつてはとても身近で大切な言葉であったようで、福田寺を名乗る寺院は日本中にある。
この京都市南区の福田寺は行基草創といい、平安末期には俊恵(しゅんえ)法師が住職であったと伝える。俊恵は和歌の名手で、百人一首にも入っている。
現在は浄土宗の寺院。本尊は地蔵菩薩像と釈迦如来像の二尊で、行基作と伝える。
また、珍しい摩耶夫人像や龍神像を伝える。
拝観の環境
本堂、龍神堂ともに堂内で、近くより拝観させていただけた。
本堂の地蔵菩薩、釈迦如来像は厨子中に納められ、上半身はかげになって、細部までよく見るのは難しい。
本堂の仏像の印象
本堂壇上の厨子中には地蔵菩薩像と釈迦如来像が並んで安置されている。
ともに立像で、地蔵菩薩は像高130センチあまり、釈迦如来はそれよりやや高い。
江戸時代の地誌に福田寺の本尊は地蔵菩薩、釈迦如来は脇壇に安置と書かれたものがあるので、地蔵尊が本来の本尊、釈迦像は客仏であるのかもしれない。
地蔵菩薩像は、平安時代前期から中期頃の古像。一木造で、背中からくりを入れる。
目鼻立ちは大振りにあらわされ、個性的な顔立ちである。左手は胸のあたりに上げて宝珠をささげ、右手は錫杖を持つが、手は後補。両腿は太く、量感豊かにあらわされ、腹から腰まわりの衣の線は股間に集中して、両足の間を流れ下るが、その線も太く力強い。
一方の釈迦如来像は衣の線が奔放に刻まれ、顔立ちや肩のあたりの衣の線にはプリミティブな力強さがある。
本尊の厨子の左右には二天像が安置され、こちらも130センチほどの像。お寺では持国天像、多聞天像とよんでいる。荒々しい中にも穏やかさがあり、平安時代中期ごろの像と思われる。
龍神像について
龍神像は本堂脇のお堂に本尊として安置されている。
像高は60センチあまり。ヒノキの一木造で内ぐりもない古様なつくりである。平安前期までさかのぼる像と思われる。
飛び出した目玉や前で組んだ手などは後補となり、全体に傷みが進んでいる。かつては雨乞いの儀式に直接この像を用いたのだという。
鼻は短いが大きい。口はへの字にして強く結び、あごは力強い。首は短い。膝から足を折ってすわる姿をしている。ふんどしをしめるほか、腕に飾りをつけているほかは肉体をあらわにする。筋骨隆々とたくましい肉体の強い存在感が魅力的である。
龍神像に向かって左側に安置される摩耶(まや)夫人像は、中国南北朝時代に南朝の梁を建国した武帝が自ら彫り、空海によって請来されたとの伝承を持つ。かつては兵庫の摩耶山に安置されて、のちにこの寺に移されてきたという。
摩耶夫人はお釈迦さまのお母さんで、お産のために実家にもどる途中、ルンビニという場所(今のネパール国内)で休んでいる時にわきの下からお釈迦さまを出産したと伝える。
本像もこの出産の時の姿であり、右のわきの下から下がるように見えているのが、今まさに誕生した釈迦である。
さらに知りたい時は…
『見仏記6 ぶらり旅篇』、いとうせいこう・みうらじゅん、角川文庫、2012年
『福田寺と下久世郷』、橋本猛、2004年
『京都市の文化財』21、京都市文化市民局文化部文化財保護課、2003年
『京都の美術工芸 京都市内編』上、京都府文化財保護基金、1985年
→ 仏像探訪記/京都市