広隆寺霊宝殿の不空羂索観音像
すらりとのびやかな美仏
住所
京都市右京区太秦蜂岡町32
訪問日
2009年11月22日、 2015年8月24日
拝観までの道
広隆寺までの行き方は、広隆寺講堂の阿弥陀如来像の項をご覧ください。
南大門を入ると正面が講堂、その先に聖徳太子像(秘仏)をまつる上宮王院太子殿。そのさらに北側に宝物館である霊宝殿がある。
拝観料
一般700円
仏像のいわれなど
旧霊宝殿は1923年、聖徳太子の1300年忌にあわせて建設された。その東側に新霊宝殿が1982年につくられ、ここで広隆寺に伝わる数十躰の仏像が公開されている。
奥の中央には、有名な宝冠弥勒菩薩半跏像が安置されているが、そこから振り返ると、弥勒像と向かい合わせに3躰の大きな仏像が並んでいるのが目に入る。
3躰の真ん中は千手観音坐像。1012年(平安時代中期)の像内銘を有し、寄木造初期の作としても彫刻史上大変重要な位置を占める仏像である。破損が進んで痛々しい姿だが、よく見ると大変美しい顔つきであり、また時代を経てきた神々しさのようなものを感じる。
向って右の千手観音立像は、極めて林厳な顔つきの平安前期彫刻。そして向って左、霊宝殿の出口に近い場所に大きな不空羂索観音像が立っている。
9世紀後半につくられた『広隆寺資財交替実録帳』に金堂内安置仏として不空羂索菩薩檀像(立高一丈七寸)、十一面四十手観世音菩薩檀像(立高八尺)の記載があり、それらが、現在霊宝殿で千手観音坐像の左右に立つ不空羂索観音立像と千手観音立像であろうと考えられている。
ところが、不空羂索観音像には、「もとより安置し奉るところ」との注記があり、千手観音像にはその記述がない。このことから、両像にはある程度の年代差があり、不空羂索観音像は9世紀前半以前の像(奈良時代後半に造像され、818年の広隆寺火災をくぐり抜けたものか)であり、千手観音像はそれ以後、『実録帳』が造られた9世紀後半までの間の作と考えられている。
なお、両像は新霊宝殿ができる前は講堂内に安置されていた。
拝観の環境
少し離れて全身を拝したり、近づいて仰ぎ見たりと、じっくり拝観できる。側面観もよくわかる。ただし、霊宝殿はかなり照明が抑えられている。
仏像の印象
像高3メートルを越える立像。単純に比較すれば、東大寺三月堂本尊の不空羂索観音像の方がずっと大きいが、この広隆寺像はすぐ前まで寄って拝観できるので、本当に大きさを感じる。
材はヒノキあるいはカヤ。一木造。
『実録帳』に檀像とあり、また現状も一見素地のようだが、実際には表面がかなり補修されているようで、砥石の粉のようなものがかけられているらしい。特に顔は体の色に比べて黒っぽく見え、これは厚く補修を受けているからなのかもしれない。上方からの衝撃を受けたことがあるのか、まげや天冠台は後補であり、また通常の不空羂索観音は3眼だがこの像は額の第3の目がないのも、補修の際に埋められていしまったからではないかと考えられる。
このように顔面がかなり変わってしまってはいるが、それにもかかわらず本像はすばらしい仏像と思う。
まず、全身の印象がすばらしい。頭部は小さく、体は細身でのびやかである。特に下半身が長い。また、脇の腕も左右にあまり張り出さず、この像のもつ上下への方向性を高めている。
ここで比較対象にしたいのが、やはり東大寺三月堂本尊像である。三月堂像は顔や体の幅をしっかりとって、腕もよくはりだし、まさに仏像の中の仏像、王者の風格をもつ。それに対して本像はすらりとして、厳粛な顔立ちながらも王女さまのような雰囲気がある。
次に下半身の衣の美しさ。この像の腰の下の繰り返される襞(ひだ)は、布の質感の表現ということでは日本の木彫仏中最高と思う。
さらに、側面観のすばらしさをあげたい。前から見て細身の印象だが、横からは意外にしっかりと肉厚な像であることがわかる。脇の腕の付き方は、下から見上げるとなかなか肉感的で、本当に美しい。
なお、この不空羂索観音像のすらりとした印象に近い仏像としては、栃木・大谷寺の石彫の千手観音像や和歌山・道成寺本堂に現在安置されている千手観音像をあげることができる。
ところで、この像は右肩にだけ天衣(てんね)をつけているが、お腹の上で切れてしまっている。この天衣は別材でつくってつけているそうだ。不空羂索観音像は鹿の衣をまとってあらわされるという約束事があるが、この像も本来は鹿皮衣や垂下する天衣をつけた、今よりはもっと派手やかな姿であったかと想像される。
簡素な木製の光背がついている。平安時代にさかのぼる古いものだが、この像の当初のものではないと思われる(転用か)。
「檀像」について
『広隆寺資財交替実録帳』には、この不空羂索観音像を「檀像」と記されている。
檀像とは、その名の通り檀木に彫刻された像、すなわち南方産の白檀などを用いた仏像のことである。しかしこの香り高い木は材の制約から大像をつくることはできない。また、大変に堅い材質である。熟練した仏工によって緻密な彫刻がほどこされ、素木のままの仕上げがなされた比較的小さな仏像、それが本来の檀像彫刻である。
本像は国産材でつくられた大像であり、 一般的な檀像の概念からは外れると言わざるを得ない (一部に乾漆が使われていたり、彩色がなされていた可能性もある)。
しかし、『実録帳』がつくられた9世紀にはこの像は「檀像」とされていたことから、当時考えられていた檀像の概念や範囲がどのようなものであったかを考える手がかりとなっている。
その他
境内の西の端に桂宮院という鎌倉時代の美しい八角の堂がたっている。かつては4月、5月、10月、11月の日曜日に外観が公開されていた(拝観料200円)。その後、お堂の修理をきっかけに非公開となっている。
中でまつられていた聖徳太子像や如意輪観音像は霊宝館に移されていて、拝観できる。
さらに知りたい時は…
『極美の国宝仏 広隆寺の仏像』下、メディアプラン同朋舍、2002年
「広隆寺蔵 不空羂索観音菩薩立像」(『国華』1268)、佐々木守俊、2001年6月
「不空羂索観音の鹿皮衣」(『平安彫刻史の研究』所収、名古屋大学出版会、2000年)、伊東史朗
『不空羂索・准胝観音像』(『日本の美術』382)、浅井和春、至文堂、1998年3月
『週刊朝日百科 日本の国宝』015、朝日新聞社、1997年6月
『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇』2、中央公論美術出版、1976年