浄智寺の三世仏と常楽寺の阿弥陀三尊

三体の如来像を本尊とする浄智寺、鎌倉時代前期の基準作を本尊とする常楽寺

浄智寺仏殿
浄智寺仏殿

住所
鎌倉市山ノ内1402(浄智寺)
鎌倉市大船5-8-29(常楽寺)


訪問日 
2021年12月18日


この仏像の姿は(外部リンク)
臨済宗円覚寺派 浄智寺(公式サイト)



浄智寺について
北鎌倉駅下車、駅前の県道を鎌倉駅方面に5分ほど歩くと、横須賀線踏み切りの手前に「明月院」バス停がある。そこを右折すると浄智寺の門前に出る。拝観料は200円。

仏殿本尊は3体の如来像で、三世仏と称する。
13世紀後半の創建だが、南北朝時代に大火となり、本尊も焼けてしまった。記録によれば少室慶芳という臨済宗の高僧が浄智寺住職にあった1360~70年代に再興がめざされ、まず一尊をつくったという。他の二尊もほどなくつくられたとすれば、現本尊の3体は14世紀後半の再興と考えられる。ただし、江戸時代前半には浄智寺はたいへん衰微し仏像も破損が進み、1699年に再興されたという。また関東大震災でも被害を受けており、補修部分も多い。


浄智寺の三世仏の印象
像高はいずれも約1メートルの坐像、寄木造、玉眼。
仏殿入口からの拝観だが、堂内にはライトがあり、よく拝観できる。

三世仏の三世とは過去、現在、未来をいい、一般に釈迦、阿弥陀、弥勒を三世仏という。
はるか遠い未来に出現することが予言されている弥勒は未来仏でよいとして、阿弥陀、釈迦のどちらを過去、現在とするかは意見がわかれるようだ。はるか昔に悟りを開いた阿弥陀仏を「過去」、この娑婆世界で悟りを開いたのが釈迦仏を「現在」と考えるか、すでに涅槃に入った釈迦仏を「過去」とし、今臨終を迎えれば直ちに救ってくれる阿弥陀仏を「現在」と考えるのかであろう。
浄智寺の場合、過去が阿弥陀、現在を釈迦、未来を弥勒と考え、現在仏である釈迦如来像を中尊としている(向かって左が阿弥陀如来像、右が弥勒如来像)。

三尊は衣を左右に垂下させる点が共通する。これは鎌倉でよく用いられた仏像の形である。雰囲気は中尊と左右の如来で異なりがあり、中尊は細面で目は釣り上がりぎみで、比較的厳しい表情である。肩幅も狭く、左肩で衣が鋭角に折り返されるさまもくっきりとしている。また脚部の形もはっきりと見せている。

両脇の像は顔立ちはふくよかで、上半身、特に右脇腹まで広く肌を見せ、垂下する衣は両膝から直接下がるようにしているため、中尊よりも衣と脚部が一体化しているように見える。


常楽寺について
常楽寺は大船駅から東南東に徒歩15から20分。バス(江ノ電バス)だと常楽寺を経由する鎌倉駅東口行きか鎌倉湖畔循環に乗車する。北鎌倉駅から歩くと20分くらい。

このお寺は3代執権北条泰時が妻の母の供養のために設けた「粟船御堂」がその起源という。なお、この粟船が大船という地名の語源だそうだ。
泰時は1242年に死去し、このお寺にお墓がある。また一周忌もここで行ったとのこと。
仏殿本尊は阿弥陀三尊像。お堂の扉口から拝観が可能。
なお、拝観料のようなものは設定されていなかった。


常楽寺仏殿の阿弥陀三尊像
中尊の阿弥陀如来像は像高約70センチの坐像、脇侍は85センチ前後の立像。中尊は寄木造、脇侍は割矧ぎ造。中尊の台座から銘文が発見され、1242年6月12日と「行西」という人名が書かれていた。この行西については不詳。銘文の日付は3代執権泰時が亡くなった直後という。
2016年から18年にかけて解体修理を受け、その際に表面も補修された。かつての写真とみくらべると、だいぶ引き締まった顔立ちになったようである。実際、拝観した際にも威厳ある表情に感じだ。
肉髻は低くつくり、鼻筋がよく通る。来迎印を結ぶ。衣は比較的大きく開いて、右の脇腹を見せている。左肩のあたりで衣が鋭角に強く折り返しているのが特徴的である。衣のひだや組んだ足は自然な感じがある。

この仏像が制作された頃、運慶の次の世代の肥後定慶が鎌倉幕府関係の造像にあたっていたことが知られる。本像は定慶周辺の仏師の作ではないかとされる。

脇侍は腰をかがめて、観音像は蓮台(亡失)を持ち、勢至菩薩像は合掌する。来迎の三尊の姿である。脇侍像は細身でプロポーションがよい。目を細くし、髪を高く結い、腰布を着け、裙はばさりと下がる。


さらに知りたい時は…
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』16、中央公論美術出版、2020年
『文化財よ、永遠に』(展覧会図録)、住友財団・東京国立博物館、2019年
『鎌倉の仏像』(『鎌倉国宝館図録』12)、鎌倉市教育委員会・鎌倉国宝館、1965年


仏像探訪記/神奈川県

常楽寺山門
常楽寺山門