東大寺勧進所の諸堂

  毎年10月5日に公開

住所

奈良市雑司町406-1

 

 

訪問日 

2014年10月5日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

東大寺・参拝のご案内・勧進所

 

 

 

拝観までの道

東大寺勧進所は大仏殿戒壇堂の間にある。大仏殿の西側の石段を下りると、右手に指図堂(法然上人ゆかりのお堂。入堂拝観可)があり、そこを過ぎて正面に勧進所がある(従って入口は東側)。

 

勧進所はその名の通り、東大寺復興のための勧進の事務所が置かれた場所で、江戸時代に大仏殿を再興した公慶上人によって開かれた。

毎年10月5日にはこの東大寺勧進所内の3つのお堂、すなわち八幡殿、阿弥陀堂、公慶堂が開扉され、それぞれ堂内で拝観することができる。

東大寺境内には公開を告げる立て看板が立っているが、控えめな告知で気がつかない人も多いのか、比較的静かな開帳であった。

 

東大寺・秘仏開扉について

 

 

拝観料

600円

 

 

八幡殿の僧形八幡神像

勧進所の一番奥、東向きに建てられている八幡殿は、公慶上人が勧修寺門跡の法親王から寄進されたものという。

僧形八幡神像はその建物の奥に安置されている。近くまで寄って拝観させていただけた。

 

像高約85センチの坐像。ヒノキの寄木造。

像内はていねいにくられた上に丹を塗って仕上げ、その上に多くの銘記が書かれる。それによると快慶らによって1201年に造像され、東大寺八幡宮に安置された。この八幡宮は大仏殿の東南にあったがのちに移されて、現在の手向山八幡宮となっている。

近代初期の廃仏によって本像は八幡宮を出てここに移された。

 

さすがに名匠快慶の作、本当にすばらしい像である。大きな目が印象的で、また彩色がとてもよく残り、袈裟の模様など息をのむばかりである。老相らしく皺をあらわすが、同時に若々しく、はつらつとした表情が見受けられる。

以前、博物館で特別展に出品されたときにも見たことがあるが、明るいライトの下よりも、より神々しく感じられた。正面の目が合う位置にかがむと、その美しさと威厳に心奪われずにはいられない。

 

 

僧形八幡神像をめぐる謎

東大寺にとって八幡神は特別の神さまである。奈良時代、大仏造立にあたって八幡神は託宣をして事業に協力を申し出たという。その後東大寺には鎮守八幡宮がつくられたが、1180年の源平の合戦時に他の多くのお堂とともに灰燼に帰した。

この時復興にあたった重源上人にとり、八幡宮とその本尊たる八幡神像を再興することはとても大事なことであったことは想像に難くない。重源自身も八幡神の託宣を受けたという。

 

当時、鳥羽離宮の御堂である勝光明院の宝蔵に納められていた八幡神の画像が名高く、重源はこれを賜ろうと朝廷に対し強力に運動を繰り広げたが叶わなかった(結局画像は、これより1世紀のちになってかつての持ち主であった神護寺のもとに戻される)。

重源はこの画像を得られなかったことに怒り、それに代わるものとして密かに八幡神像をつくりまつったという。それが本像と思われる。神護寺に現在伝わる八幡神の画像と本像は姿や大きさが一致しており、本像は神護寺伝来の八幡神画像にならってつくられたと考えてよいだろう。

しかし銘記には重源の名前がなく、仏師である快慶が施主でもあるように記されているのは不思議なことである。本像の造立までの経緯の複雑さゆえのことかもしれない。

また、本像には天皇をはじめとする貴顕の結縁者の名前があるが、これも重源が密かにつくらせたという話と矛盾するようにも思う。

本像の造像事情については、なお謎が残る。

 

銘記には快慶を助けた仏師として運慶の名前がある。小仏師のしかも筆頭でもない後ろの方に名前が書かれているので、これはいくらなんでも慶派総帥の運慶ではないだろうという説と、同世代に複数同じ名前の仏師がいるというのはまずありえないので、これはあの運慶のことと考えるほかはないだろうという説がある。

これもまた、本像をめぐる謎のひとつである。

 

阿弥陀堂
阿弥陀堂

 

阿弥陀堂の五劫思惟阿弥陀如来像と四天王像

阿弥陀堂の本尊は、五劫思惟の阿弥陀如来像、すなわち悟りをひらくため長い長い時間座して瞑想していたために髪が伸びたという姿の阿弥陀像である。

 

東大寺の北にある末寺の五劫院の本尊も同形であるが、五劫院の像は手を腹前で組むも、衣の下になって見えない。一方、勧進所像は合掌しているという点が相違点である。

また、全体の印象は、五刧院像の方がエキゾチックな感じで、勧進所像は安定感がある。

勧進所の像は、像高1メートル強。五劫院の像の方が若干大きく、ことに五劫院像は頭部が大きめであるので、印象としては五劫院像の方がかなり大きく感じられる。構造は、両像とも体幹部はヒノキと思われる一材を用い、背面と像底からくりを入れている。また、鎌倉時代初期に東大寺の復興をはたした重源が宋より将来した等伝承も共通する。

 

単純化された顔つきがとても可愛らしい。

入堂して拝観でき、側面の様子もわかるので、頭髪をどう盛り上がっている様子にして表現しているのかよくわかる。

 

阿弥陀如来像のまわりには大仏殿様の四天王像が安置されている。像高は50センチ強。髪際からはかると50センチ弱となり、1尺6寸といったところか。

ヒノキと思われる樹種、割矧ぎ造である。

胴をしっかりとしぼっていて、その分重たい感じがない。目の表情が生き生きとして、それぞれの像が違う向きをにらみ、決して魔を寄せつけないぞというオーラがある。髪の筋、鎧の文様も精緻である。

 

 

公慶堂の公慶上人像

奈良時代の大仏は源平の合戦期に火にかかり、これを鎌倉時代前期、重源が再興するも、戦国時代に再び兵火によって焼け落ちてしまう。

焼けた大仏は無惨な姿をさらしていたが、江戸時代前期、公慶上人が再興をこころざす。

公慶は1684年、37歳の時に江戸幕府の許可を得、大仏再興のための勧進を開始、以後横臥して眠ることがなかったという。1692年に大仏開眼供養、また1705年には大仏殿の上棟式が行われたが、同年、病いを得て江戸で客死した。

大仏殿は1709年、志を継いだ弟子の公盛により完成をみた。その公盛が師を偲んで、公慶の死の翌年につくらせたものが、この勧進所内の公慶堂(御影堂)にまつられている公慶上人像である。なお、お堂も公盛がつくらせたもので、大仏殿の方角、すなわち東を向いて建てられている。

 

公慶上人像は像高約70センチの坐像。尖った頭、張ったえらはおそらく公慶の姿を忠実に写したものなのであろう。

江戸時代はすぐれた彫刻が少ないとされるが、その中では本像は人物の特徴を生き生きと伝える名作となっている。

 

 

さらに知りたい時は…

『快慶』(展覧会図録)、奈良国立博物館ほか、2017年

「東大寺・僧形八幡神坐像の再検討」(『仏教芸術』343)、岩田茂樹、2015年11月

『東大寺』(展覧会図録)、あべのハルカス美術館、2014年

『東大寺』(展覧会図録)、神奈川県立金沢文庫、2013年

『東大寺大仏』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2010年

『奈良の仏像』、紺野敏文、アスキー新書、2009年

「大仏殿様四天王像に関する覚書」(『Museum』612)、岩田茂樹、2008年2月

『大勧進重源』(展覧会図録)、奈良国立博物館、2006年

『東大寺 美術史研究のあゆみ』、大橋一章・斎藤理恵子編、里文出版、2003年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』1、中央公論美術出版、2003年

『奈良六大寺大観 補訂版 11(東大寺3)』、岩波書店、2000年

「僧形八幡神像の成立と展開」(『密教図像』18)、津田徹英、1999年

「東大寺僧形八幡神像の結縁交名」(『密教図像』12)、青木淳、1993年

『日本の古寺美術』7、保育社、1986年

 

 

仏像探訪記/奈良市