常照皇寺の阿弥陀三尊像

美しい来迎の三尊

住所

京都市右京区京北井戸町丸山14-6

 

 

訪問日 

2018年10月17日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

京都国立博物館・博物館ディクショナリー

 

 

拝観までの道

京都駅前からJRバスで「周山」まで行き、京北ふるさとバス(灰屋行き)に乗り換えて「山国御陵前」下車、北へ徒歩5分。(または「周山」のひとつ手前の「京北合同庁舎前」乗り換え)

乗車時間は「周山」まで約1時間半、「周山」から「山国御陵前」まで約15分。

 

 

拝観料

志納(目安として400~500円)

 

 

お寺や仏像のいわれなど

常照皇寺は臨済宗寺院。開山は光厳院。

光厳院は鎌倉時代末期から南北朝時代の天皇、上皇で、数奇な運命の人である。後醍醐天皇の倒幕計画の失敗によって擁立されたが、幕府の滅亡、後醍醐天皇の復位によって廃された。

南北朝時代のはじまりとともに北朝において院政を行ったが、観応の擾乱期には他の北朝系の上皇、親王とともに南朝方にとらわれの身となったこともある。

そうした中で光厳上皇は臨済宗に厚く帰依し、出家。晩年、常照皇寺を開き、ここで亡くなった。政争に翻弄され続けた光厳院は、京都市中からははるかに離れたこの地で、最後には静かな境地を得たのであろうか。

寺の裏手には光厳院ら北朝系3天皇の陵墓があり、これがバス停名となっている山国御陵である。

 

このお寺に伝わる阿弥陀三尊像は平安時代末期から鎌倉時代初期の像であるため、寺の草創よりも古い。前身の寺院である成就寺(天台系の寺院であったらしい)というお寺がかつてあったそうで、そのお寺から伝わったものであるかもしれない。

 

 

拝観の環境

靴を脱いで、書院、方丈と庭園を拝見し、渡り廊下で結ばれている奥の怡雲庵(いうんあん、開山堂)へ。正面奥には開山として光厳院のお像がまつられている。

阿弥陀三尊像はその手前側、左の壇上に安置されている。

ライトも設置され、堂内の近くからよく拝観できる。

 

 

仏像の印象

像高は中尊が50センチ強、脇侍が45センチ弱。ともにヒノキの割矧ぎ造である。

三尊とも蓮華座の下に雲座がつく。当初のものだそうで、貴重である。虚空を飛び越えて来迎する三尊であることがこの雲によって示されている。

観音菩薩はは蓮華座(亡失)を持ち、勢至菩薩は合掌する。その姿勢はやや体を前傾させるだけでなく、片膝を上げて、臨場感にあふれる。こうした姿で観音・勢至菩薩を描いた来迎図があるので、それを立体化した像とも考えられる。

 

中尊は来迎印でなく定印を結ぶ。菩薩はスピード感をもって来迎するが、浄土の絶対者である如来は飛んでくる必要などない。極楽浄土と臨終者のいる娑婆世界の間にある時間・距離は、如来にとってはあってないようななのだろう。動きのある脇侍に対して中尊はあくまで静かな坐像としてあらわされる。胸を大きくとり、脚部は抑揚やひだの変化を抑えて、定朝の様式をよく踏まえた落ち着いた像である。

 

向かって右の観音菩薩は右ひざをかなり立てる。ぐっと差し出しされた手は、臨終者の魂を今まさに迎え入れようとしている。

勢至菩薩は、ひざは観音像ほどは立てないが、少しだけ上げた左足の衣が風でめくれそうにつくられている。まげも風で乱れており、臨終者のもとに大急ぎで駆けつけた様子である。

両者とも天衣は風を受けて肩からはずれている。顔はきりりと引き締まり、とくに勢至菩薩像の顔立ちはりりしい。

 

 

さらに知りたい時は…

『光厳天皇』、深津睦夫、ミネルヴァ書房、2014年

『月刊文化財』441、2000年6月

『院政期の仏像』、京都国立博物館、岩波書店、1992年

 

 

仏像探訪記/京都市