コラム14

三十三間堂中尊像の銘文・下

 

1 台座心棒の銘文からわかること(続き)

 京都の蓮華王院本堂、通称・三十三間堂は、平安時代末期の1165年1月(今の暦で)の創建だが、鎌倉時代中期の1249年に焼け、その後再建されたものである。あの長大なお堂の中央に威厳高く座る千手観音の坐像もこの時の再興像で、像の台座心棒に書かれた銘文によれば、仏師湛慶(運慶長子)が小仏師2人とともに1254年に完成させたものと知られる。この銘文には、湛慶が法印という仏師として非常に高い位を有していたこと、82歳という高齢であったことなども記され、我々に非常に貴重な情報を伝えてくれている。
 さて、この銘文だが、湛慶の名前、年齢のあと「ただし康助四代御寺大仏師なり」という言葉が続いている。これは何を意味するのか、以下、考えていきたい。
 この文章を「康助(こうじょ)」「四代」「御寺(みてら)大仏師」に分割して、その順番に見ていくこととし、最後に「康助四代御寺大仏師」という文章全体について改めて考えたいと思う。


2 湛慶は康助4代?

 まずは「康助」から。
 康助は、運慶、湛慶などと同じく仏師の名前である。ただし彼らよりも前、平安時代の末期、つまり院政時代に活躍した。
 ところで、さらにそれより前、11世紀前半から半ばにかけての頃、定朝(じょうちょう)という偉大な仏師がいたことは多くの人の知るところであろう。それこそ、歴史の教科書に必ず登場するあの有名な平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像の作者である。その後、定朝の流れを汲む仏師は3つの派に分かれて、今日ではそれらを「院派」「円派」「奈良仏師」と呼んでいる。康助はその中の奈良仏師の1人である。のちに奈良仏師から分かれるようにして慶派という一派が登場するが、湛慶はその一員である。
 ということは、湛慶からみれば康助は大先輩、あるいはご先祖さまというような存在ということになる。
 その関係性を具体的にあらわしたのが「康助四代」、すなわち康助から4代目だよ、湛慶はね、という表記というわけだ。

 しかし、湛慶は康助から本当に4代目なのだろうか。
 以下、似たような仏師名が何人も出てくるので、わかりにくいかもしれないが、辛抱してお付き合いを願いたい。
 康助の子が康朝(こうちょう)である。そして、「康朝小仏師」として記録にあらわれているのが康慶(こうけい)。すなわち康朝の弟子筋が康慶と考えていいだろう。その康慶の子が運慶で、その子が湛慶である。整理すると、康助を先頭に康朝、康慶、運慶、湛慶と並べることができる。ということは、湛慶は康助からなるほど4代あととなるわけだ。
 いや、本当にそうか。
 問題は、「A(から)□代」という場合、Aを1代目として数えてしまうか、Aは入れずにその次から数えはじめるのかということである。「康助四代」を康助を1代目として数えはじめるならば、康朝が2代、康慶が3代、運慶が4代で、湛慶は5代になってしまう。
 実は「A(から)□代」というとき、Aを入れて数えるのか、入れないのかは説が分かれる。近世以前は入れずに数えていたとされる一方、いやそのどちらもあり得たという説、また、鎌倉期の他の仏師に関する表記を見ると(それほど豊富に例があるわけではないが)、入れて数えているようだという意見もある。
 もし、「康助四代」が康助から数えはじめて4代とすると、1人合わないぞということになってしまう。


3 康助から湛慶へ、「御寺大仏師」の流れ

 この問題と関係してくるのが、次の「御寺大仏師」である。
 康助は奈良仏師であり、その根拠地が興福寺であったことから、「御寺」とは興福寺のことだという説もあるが、一般的には「御寺」は蓮華王院(三十三間堂を本堂とする寺院)を指すとされる。三十三間堂中尊に書かれた銘文の中の言葉なのだから、そう解釈するのが自然であろう。そして、湛慶は蓮華王院三十三間堂の再興造仏のリーダーであったわけだから、まさに蓮華王院大仏師と呼ばれるにふさわしい。その上で、それは康助以来、代々のことであるぞよと、この銘文は述べているのだ。
 これは極めて重大な記述と言わなくてはならない。なぜなら、蓮華王院の大仏師の先頭に康助がいて、それが蓮華王院の始まりの時とすれば、三十三間堂が創建された際に中心となって造仏にあたったのは康助だったということになる。他の史料では知られない創建時の三十三間堂の大仏師が、鎌倉時代の再興像の銘文から康助と判明するということになるわけだ。


4 改めて「康助四代」とは

 三十三間堂の創建は1165年1月(長寛2年12月)。それは康助の活躍期の中にあるのか、確認する必要がある。
 康助は生没年不明だが、記録にあらわれる活動は1116年から1155年までのおよそ40年にも及ぶ。実に息長く活躍した仏師である。さらに『究竟僧綱補任』という史料によれば、1162年の時点で康助は法眼(ほうげん)位にあったことが記されている(当時これを超える法印位は空席で、法眼位を持つ仏師5人のうち康助は先頭に書かれている)。その3年後の1165年に存命であったかどうかは史料からは確認できないが、もし仏師としての活躍を続けていたのであれば、長いキャリアを積んできた仏師としてこの大仕事を任されたということは十分あり得たであろう。
 康助の初期の活動歴および法橋(ほっきょう)となった年(1116年)、また父親(頼助という仏師で、1054年生まれ)の年齢から推測すれば、康助の生まれは1080~1090年ごろかと思われる。そうだとすると、1165年の三十三間堂完成の時点で80歳前後であったろう。非常な高齢だが、のちに湛慶が中尊像を再興したのも82歳であり、康助も同様に長寿を保ち長く現役を続けた仏師であった可能性はある。
 しかし、さすがにその年齢では、自ら先頭に立つよりも、子の康朝に頼るところが大きかったのではないか。そして、その康朝について、後世の史料(『壬生家文章』)ではあるが、千体千手観音像供養の賞として1164年に法眼位を受けたと書かれ、これを信じるならば、康朝もまた三十三間堂造仏を担った者であった。
 その次の康慶だが、蓮華王院内につくられた五重塔安置の造仏によって法橋位を受けているので、彼もまた蓮華王院大仏師と呼ばれるのに十分な資格がある。それに対し、その子の運慶は、父に助力したかもしれないが、蓮華王院造仏に関してリーダー的な活躍をしたという記録はない。
 ということは、「康助4代御寺大仏師」として、康助を1代目とした上で湛慶までの蓮華王院大仏師とよばれるにふさわしい4代をあげるならば、康助、康朝、康慶、湛慶の4人ということになる。よりによって日本の仏師の中で最も有名な運慶だけが除かれての4人ということで、これは実にもやもやする結論だが、つじつまは合う。


5 まとめにかえて

 以上のように、中尊千手観音坐像興像像に残された銘文からは、湛慶による造像と、康助以後代々が蓮華王院の造仏を担当してきたことが述べられている。そして、これは奈良仏師の康助が三十三間堂創建時の仏像を担当したことを指し示している。
 ただし、銘文の記述は、三十三間堂再興時の認識であるということもまた、押さえおかなくてはならない。実際に康助が創建時の三十三間堂のすべての造仏に関して責任ある立場であったのか、それとも中尊像造立の大仏師であったのかはこの銘文からは判然としない。あるいは、1000体の観音像制作を分担した数人の大仏師の1人である可能性も完全には否定しきれない。
 三十三間堂創建時の造仏に康助が関わったことは確かである。しかし、果たした役割の大きさについては、なお慎重に考えていく必要があると思われる。


参考文献
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』第8巻、水野敬三郎 ほか編、中央公論美術出版、2010年
「蓮華王院の長寛造像の研究(1)ー創建の経緯と造像仏師の検討」(『実践女子大学美學美術史學』21号)、武笠朗、2007年
「院政期の『興福寺』仏師」(『仏教藝術』253号)、根立研介、2000年
「蓮華王院大仏師の系譜」(『仏教藝術』201号)、麻木脩平、1992年

 

 

 

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