コラム11

得長寿院千体観音堂の仏師・上

三十三間堂
三十三間堂

 

1 三十三間堂の「先輩」! 得長寿院

 京都、東山の地に建つ三十三間堂といえば、ずらりと立ち並ぶ千手観音像の威容を誰もが思い浮かべるであろう。長大なお堂の中央には大きな千手観音像(中尊像)がどんと座り、それをはさんで左右に等身(人の背丈に近い大きさ)の千手観音立像を500体ずつ安置する(中尊の真後ろにも千手観音立像が1体、さらに二十八部衆像と風神・雷神像も安置されている)。はじめての人はもちろん、繰り返し訪れても、よくもこれだけたくさんの像をつくり、まつったものだとそのたびに驚きの念を抱かずにはいられまい。

 ところが、このような千体の観音像を安置したお堂は、この三十三間堂がはじめてではない。先例がある。
三十三間堂がつくられたのは長寛2年11月(現在の暦で1165年1月)だが、それより三十数年さかのぼった天承2年(長承元年、1132年)3月に供養された得長寿院(とくちょうじゅいん)千体観音堂がそれである。 
 得長寿院があったのは三十三間堂よりも3キロほど北、今の京都市左京区岡崎の付近であった。このあたりはかつて白河とよばれ、院政期には離宮(御所)がつくられて、周囲に巨大な寺院や御堂が次々と建てられ、得長寿院千体観音堂もその中の1つであった。三十三間堂と同規模で、同様に南北に長い建造物の中、中央に大きな像を1体(中尊像)安置し、等身の観音像を1000体まつったというから、堂内の構成も同様であったと思われる。ただし、三十三間堂が千手観音像をまつっているのに対し、得長寿院は聖観音(しょうかんのん、正観音とも、手が2本の観音)像であったので、その分堂内は若干すっきりとした雰囲気であったかもしれない。(注)
 なお、三十三間堂は平清盛が後白河院のためにつくったものであるのに対し、得長寿院千体観音堂は清盛の父、平忠盛が鳥羽院のためにつくったものであった。その意味でも、得長寿院千体観音堂は三十三間堂の「先輩」といえるだろう。

*注:得長寿院千体観音堂の中尊について、インターネット上の記事で「十一面観音」と書かれているものがあるが、誤り。当時の貴族の日記(『中右記』)に、明確に「正観音」とある。


2 4ヶ月半で1000体を造像

 驚くべきは、1000体の観音像の制作期間である。1131年から1132年にかけてのおよそ4ヶ月半でつくられ、安置されたという。単純計算すれば、1日に8体のペースでつくり続けたことになる。
 なぜ、こうした短期間での大量造像が可能だったのであろうか。
 それを知るためのキーワードが、寄木造と工房である。
 この時代の仏像は、ほとんどが木像である。造像技法としては、平安時代前期までは一木造であったが、この頃には新たな技法である寄木造が盛行していた。一木造は、その名のとおり仏像の中心部分を1本の材木から彫り出していくわけだが、寄木造ではその代わりとして数本の木を合わせて扱うこととし、その合わせた木材を別々にして分担によって彫り進めることで、効率アップが見込まれる。
 しかし、そのためには、高い技術を身につけた多くの仏師のまとまりがあって、リーダーの指示のもと、寸分たがわぬパーツがつくれる体制がとれなければならない。工房の成立が不可欠ということである。
 寄木造はその初期的なものは10世紀にすでに登場していたが、11世紀に活躍した偉大な仏師、定朝(じょうちょう)のもと大成されたと考えられている。定朝といえばあの有名な平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像の作者であり、定朝によってつくられた仏の姿は「満月のごとし」と賞讃され、長く仏像の規範とされた。
定朝はまた、はじめて僧綱(そうごう)の位を得た仏師でもあった。僧綱とは非常に高い僧の位で、法印、法眼(ほうげん)、法橋(ほっきょう)の3つからなる。定朝は法橋から法眼へと進み、仏師の地位の向上を果たしたのである。以後、定朝の流れを汲んで、高い位を保持している仏師が工房のリーダーとなり、寺院、摂関家をはじめとする貴族、院政が始まると院らの仏像制作の要望に応えていったのである。


3 得長寿院千体仏をつくった仏師は誰?

 得長寿院千体観音堂に関して、1000体の像が非常な短期間でつくられたことのほかには、造像はじめや供養の儀式の様子、造立に功績のあった平忠盛は破格の昇進を果たしたことなどが知られている。これらは、当時の貴族の日記(『中右記』『平知信記』『平時信記』)に記されているのだが、残念なことに造像にあたった仏師名は書かれていない。しかし、『平時信記』には興味深い記述がある。1000体の仏像は200体ずつ、5人の仏師に担当させたというのである。
 この5人が誰か、推測できないものだろうか。
 短期間に大量造像が可能で、しかもそれが院のための造仏となれば、大きな工房において中心的な存在であった仏師、それはとりもなおさず定朝の流れを汲んだ、高い位を有する仏師であったと推測することができよう。得長寿院千体観音堂の仏像がつくられたのは1131年から1132年にかけてなので、これは定朝の死後約80年、定朝を1代目と数えるならば、3~5代目の仏師の活躍期ということになる。
定朝の流れを汲み、高い位をもち、大規模な工房の中心としてこの時期に活躍していた仏師5人とは…

(続く)

 

 

 

 → 次のコラムを読む   仏像コラムトップへ