コラム10
東光禅寺で座禅体験と仏像拝観
1 座禅体験をしました
お寺でできる体験といえば、すぐ思い浮かぶのは座禅、写経、護摩炊きの法要への参列といったところでしょう。
私は、秘仏のご開帳にうかがったの際などで法要に立ち会わせていただくことは多いです。先日も伊賀の新大仏寺の護摩炊き法要に加えていただきました。これはご開帳の法要ではなく、定期的に行っている行事でしたが、終わった時には気持ちがはればれと感じられました。
お写経をさせていただく機会はまだありません。
座禅に関しては、昨年末に横浜市金沢区の東光禅寺で体験させていただくことができました。
座禅の体験は前も一度ありました。かれこれ30年以上も前のことです。仕事がらみで、大勢がいっせいに行うものでしたが、残念ながらあまり思い出したくないような体験で、それもあって以後やってみようと思ったことがありませんでした。
その時の指導者の方は(今から思うと僧侶ではなく、どこかでかじってきた人だったのかもしれません)「無になれ」「心を無にするんだ」と脅しつけるような雰囲気でした。「心」を「無」に? 心の中を空っぽにするような状態を目指すのか、それとも心そのものを無くしてしまうようにするということなのか。何だかちっともわからないままに、足の痛みが強くなっていきます。また、座禅を組みながら心の中で「いーち」「にーい」「さーん」と数えよとも言われたように記憶します。ただひたすら数を数えることだけに集中して、10まで行けと。でも3くらいでもういけない。「ああ、まだ3か」「えっと今3だよな、次は4か」とか、あるいはまったく違うことを考えはじめて、今いくつだったのかさえ分からなくなって、絶対に10までなんか行かない。ああ、まるでだめだなという気持ちばかりが残りました。
ところが、今回縁あって体験させていただいた東光禅寺の座禅では、事前に説明があって、雑念が生まれたらそれはそれでよいという。ただし、いけないのは雑面を際限なく再生産すること。雑念が湧いたら、いつまでもそれにとらわれたり、どんどんとそれを突き詰めていったり、連想を重ねたりしないで、水に流すつもりでということでした。
今の社会、我々はさまざまなストレスに絶えず苦しめられています。それだけでなく、以前受けた嫌な気持ちを繰り返し思い出したり、これからのことを悪く予想して、それもこれもストレスの種になります。だから、必要以上にネガティブな思考にとらわれないことは大切なことです。そして、浮かんだことを流していくようにするというのは、ストレスをためすぎないためのイメージトレーニング的なところもあるように思います。
実際に座ってみると、本当にたくさんの雑念が湧いてきます。
「叩き棒」、正しくは警策(けいさく、きょうさく)というのですが、これを持ったお坊さまがとにかくゆっくり歩く。あんなにゆっくりと歩いているのに、まったく歩みがぶれるということがなく、「ああ、すごいな」と思う。お坊さまが次に前に来た時には叩いてもらおうかな、どうしようかなとも考えます。あと、時間がどれだけたったか、耳に入ってくる音の情報についてなど。
そんなとき、雑念は流してしまうようにというお話を思い出し、私は、芦の小さな舟の上に「雑念」を乗せて、それがすっと川の流れに乗って見えなくなっていくようイメージを持つようにしました。
「叩き棒」はこちらから「叩いてね」と合図してはじめて叩かれます。これは「希望策」といい、多分初心者なのでそのようにしてくれていたのでしょう。
叩かれると心地よい痛みです。叩かれたあと、心の中の澱のようなものがきれいになった気持ちがしました。
説明→座る→堂内を歩く→座る→終わり(お茶をいただく)で、1時間半くらいのメニューでした。でも時間は決まっていなくて、人によって違ってくるそうです。日時も決まっていなくて、やりたいと思ったら前もって連絡して、お寺の方があいている日だったらOK。平日に約束してひとりで来る人もいるそうです。
2 東光禅寺について
せっかくですから、東光禅寺さんとご本尊についても紹介させていただきます。
白山東光禅寺は横浜市金沢区にあり、交通は京浜急行線の金沢文庫駅西口からバスになります。前身は医王山東光寺といって、鎌倉の鶴岡八幡宮の東、現在の鎌倉宮のあたりにあったらしい。
東光寺を建立したのは、源平の合戦で活躍し、頼朝の死後、北条氏の奸計によって滅ぼされた豪傑、畠山重忠と伝えます。また、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には二階堂行光という幕府官僚が東光寺を構えたという記録もあります。
当初は真言宗の寺院だったようですが、のち臨済宗(禅宗の一派)に転じました。鎌倉中期に南宋から来日して建長寺開山となった蘭渓道隆の高弟、葦航道然 (いこうどうねん、大興禅師)が、衰退した東光寺を鎌倉から釜利谷の地に移し、臨済宗としたともいい、また、それは本当はもっとあとの室町時代中期のことだったがその事績を大興禅師に仮託をしたのだともいいいます。
その昔は、現在の場所から少し離れた白山道という場所にあったそうですが、関東大震災で被害を受け、現在地にて再建、東光禅寺と号しています。
東光禅寺の本尊は薬師如来像です。臨済宗では釈迦仏を本尊とすることが多いのですが、薬師仏を本尊としているのは、それが前身の東光寺以来の大切に守り伝えてきた仏像であるからなのでしょう。
3 本尊の薬師如来像について
ご本尊の薬師如来坐像は像高約30センチと、仏像としては小さな部類に入りますが、威風堂々とした仏像です。2002年度に横浜市の指定文化財となりました。
顔は比較的小さく、上半身は大きく頼もしい。目はやや釣り上がり気味で、厳しい表情が覗きます。
頭部は、肉髻の立ち上がりが自然で、螺髪(らほつ)は小粒、すきまをとりながらよく整ってつくりだされています。髪際はカーブせず、一直線につくられています。
胸は自然なふくらみ。左胸のところ、衣(袈裟)の下にちょっとだけ見えているのは、左肩から吊った下着(シャツ)だと思います。
右手はてのひらをこちらに向け、左手で薬壷をとる。衣の流れは自然で、丁寧なつくり。両足ともかかとは衣で隠れています。
像の構造は、ヒノキ材を用いた割矧ぎ造(わりはぎづくり)。
これは、体幹部を一材より彫り出し、制作途上で前後に割って内側を大きくくりぬいてしまい、またはぎあわせる技法です。内側をくるのは、重量を軽くするという意味もあるかもしれないが、主たる理由は木材の干割れを防ぐため。もともとが一本の木なので、いったん割られたとはいっても両材はピタリとはぎ合わされます。大変合理的なつくり方で、比較的小さな像でよく用いられました。
江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』(久良岐郡之四)には、東光寺の本尊の薬師如来像は定朝(じょうちょう)の作で、高さは1尺3寸(約40センチ)、秘仏で30年に一度の開扉と書いてあります。
そのなごりなのでしょう。厨子中に安置され、前の扉を少しあけて、そこから拝ませていただくことができました。
作者とされる定朝は平安中期の仏師僧で、藤原道長・頼通のもと、和様の仏像彫刻を完成させた人物です。しかし本像のきりりとした面貌や生き生きした流れをつくり出す衣など、鎌倉時代前期彫刻の風が強く見られます。
鎌倉前期の時期には鎌倉御家人にとって運慶一派に仏像をつくらせることが一種のステイタスのようになっており、本像もそうした風潮のもとでつくられたのかもしれません。