遣迎院の二尊像

4月8日のみ拝観可

住所

京都市北区鷹峰光悦町9

 

 

訪問日 

2018年4月8日

 

 

 

拝観までの道

遣迎院(けんこういん)は、京都市バス6号系統(四条大宮から二条駅前を通って京都市街北西へと向かう)にて「鷹峯源光庵前」下車、西へすぐ。

このあたりはお寺が多く、前は「血天井」で有名な源光庵、西は光悦寺垣で有名な光悦寺である。

 

普段は非公開だが、4月8日の花まつりの時のみ境内を開き、甘茶の接待、また本堂内での拝観ができる。

 

 

拝観料

特に拝観料等の設定はなかった

 

 

お寺や仏像のいわれなど

PC上の地図で「遣迎院」で検索すると、2つのお寺がヒットする。

ひとつは京都市北区にある浄土真宗の遣迎院(けんこういん)、このお寺である。

もうひとつは東山区にあり、こちらは浄土宗で、南遣迎院ともいうそうだ。もともとこの2寺はひとつで、創立は鎌倉時代初期、九条兼実の孫、九条道家により、法然の高弟であった証空を招いて、九条家ゆかりの東福寺のそばに開創された。

時代は下って豊臣政権の時移転を迫られ、結局その命令は実施されなかったものの、移転騒動の余波であろうか、ふたつに分れることになってしまい、その一方は廬山寺の近く(現在の京都市上京区)に寺を構えた。

さらに、江戸時代後期から近代初期、火災にみまわれたり、寺地の上納を余儀なくされるといった厳しい一時期があり、残った堂宇も老朽化して、20世紀なかば、現在の場所に移転し再出発をしたのが今の遣迎院ということだ。

 

本尊は、釈迦、阿弥陀の二尊である。これは娑婆世界から衆生を送り出す釈迦(発遣の釈迦)とこれを迎えて極楽へと導く阿弥陀(来迎の阿弥陀)であり、それをもって遣迎院と名付けられている。絵画で、釈迦に送られ、阿弥陀に迎えられる人物の様子を劇的に描いたものは作例は多いが、彫刻で二尊をあらわして本尊としている例は多くないと思われる。

 

 

 

拝観の環境

二尊は本堂奥に接続している耐火式のスペースに安置される。ガラスと格子戸で仕切られ、また拝観位置からは距離があるが、ライトをつけてくださっているので、よく見ていくと仏像の姿がはっきりと見えてくる。一眼鏡のようなものがあるとなおよい。

 

 

仏像の印象

釈迦、阿弥陀の二尊像はともに像高約1メートルの立像。向かって右に釈迦仏、左に阿弥陀仏が立つ。ヒノキの寄木造で玉眼を入れ、ほぼ直立する点は共通している。しかし像の雰囲気は相当異なり、また表面の仕上げは釈迦は漆箔、阿弥陀は金泥塗りに切り金を入れている。

 

阿弥陀如来像は足ほぞに「アン阿弥陀仏」の銘記があり、快慶作とわかる。快慶はのち法橋、法眼の位を受けると銘記にそう書くが、この作品はそれ以前、いわゆる無位時代の作である。また、像内には願文や印仏・結縁交名などの納入品があり、その中には1194年の年を記すものがあって、仏像の像立年代を考える参考になる。

結縁者は過去者(その時点ですでに死去しているもの。追善のために名前が記される。源平の合戦など当時の内乱で命を奪われた人々など)を含めて1万人以上となり、非常に多くの人々の結縁や奉加によって造立されたとわかる。その中には遣迎院の創建者である九条家ゆかりの人々のほか、東大寺復興関係の僧俗、また高野山、比叡山など宗派を越えた僧侶が入っていて、注目される。

 

顔はきりりとりりしい表情。目は釣り上がり気味で、鼻筋がよく通る。上半身は大きく、下半身はすっきりとまとめる。

衣の線はたるませたり、複雑に折れたりせず、簡潔に、しかし生き生きとつくりだしている。

 

これに対して釈迦如来像はかなり印象が異なる。作者については今のところ情報が得られていない。

落ち着いた表情で、若々しい感じがする。胸は厚みが感じられない。顔、上半身は阿弥陀像よりも若干小さめであるように思う。その分下半身が長く、安定感がある。衣のひだは変化に富み、肩、腹、股間で細かく刻み、ももの部分はひだをつくらずに量感を表現している。

左手は肘を曲げ、てのひらに鉢を載せている。

快慶作の阿弥陀像があまりにも完成度が高く、一方の釈迦像は作者がわからないこともあって注目されることが少ないようだが、味わい深い名像であると思う。

 

 

さらに知りたい時は…

「ほっとけない仏たち100 遣迎院の阿弥陀如来と釈迦如来像」(『目の眼』571)、青木淳、2024年4月

『特別展 快慶』(展覧会図録)、奈良国立博物館ほか、2017年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』1、中央公論美術出版、2003年

 

 

仏像探訪記/京都市