神護寺薬師如来像
厳しさ、迫力、緊張感
住所
京都市右京区梅ヶ畑高雄町5番地
訪問日
2015年8月23日、 2015年11月7日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
京都駅前からJRバス周山方面行きに乗車し、「山城高雄」下車。または四条烏丸より京都市バス8系統に乗車し、「高雄」下車。
バス停からお寺までは徒歩約20分。一度清滝川を渡る橋(高雄橋)まで下り、そこから参道を上っていく険しい道である。
拝観料
600円
お寺や仏像のいわれなど
神護寺は和気氏の寺としてはじまる。
奈良時代も末近い頃、僧道鏡は権勢さかんにして、皇位をうかがう。この時、九州の宇佐八幡宮に派遣され、八幡神の託宣を朝廷に伝えるという大役を担うことになったのが和気清麻呂である。結果、道鏡を次の天皇にという流れは阻止されたが、これに怒った称徳天皇や道鏡によって清麻呂は流罪とされた。
770年に称徳天皇が亡くなると道鏡は追われ、復権した清麻呂は神願寺、すなわち八幡神の神意による寺の建立を志す。
神願寺の所在地は残念ながら不明であるが、その創建は780年代のころ。793年に神願寺に能登の田地が施入されたという記録があるので、その年以前である。
なお、神願寺は官寺に準ずる定額寺という地位を与えられた。
それとは別に、和気氏は山城の高雄の地に高雄山寺(高雄寺)という私寺を建てていた。こちらも正確な創建時期は不明だが、802年に清麻呂の子和気弘世が高雄山寺に最澄を招いて法要を行ったという記録があるので、それ以前に成立していたことは確かである。その後空海が入寺する。和気氏はこの山寺を舞台に当時の仏教界の新たなリーダー、最澄と空海の両名を積極的に支援したわけで、進取の性に富む氏族であった。
さて、824年、和気真綱(弘世の弟)が神願寺と高雄山寺の地を交換することを願い出て許された。神願寺の土地が「地勢沙泥」で壇場にふさわしくないというのがその理由である。交換とはいうものの、おそらく神願寺を高雄山寺の方に併せたのであろう。こうして成立したのが神護寺(神護国祚真言寺)であり、定願寺の地位を引き継ぎ、真言密教の道場として空海の後継者によって発展していくことになる。
平安時代後期には衰退するが、鎌倉時代初期に文覚上人の活躍によって復興をとげる。しかしその後再び衰退に向かい、江戸時代前期に一時復興の機運が高まったが、近代初期の廃仏の時期には寺領を失い、子院も廃絶、本尊は現在の毘沙門堂に安置されていたという。
20世紀になって金堂をはじめとする諸堂が再建されて、今日に至っている。
拝観の環境
金堂の本尊である薬師如来像は、須弥壇上中央の厨子内に安置される。
内陣は結界で仕切られているが、壇の前まで進むことができる。
複数のライトが照らしているが、下からのライトの明かりが強く、また像までの距離が若干あって、印象をとらえにくいところがある。一眼鏡のようなものがあるとよい。
(11月の紅葉のシーズンは混み合うため、内陣への入場を停止している。本尊拝観をメインに考えて訪れるなら、この時期以外が望ましい。)
仏像の印象
本尊の薬師如来立像は容貌魁偉、まことに力強い造形の仏像である。
像高は約170センチの立像で、台座心棒まで一木で刻み出す。内ぐりなし。樹種はカヤ。
肉髻は高く、螺髪の粒は大きく、額は狭い。顔つきはこれ以上ないほど厳しい。ことに顎が力強い。
両手を前に出し、左手で薬壷を持つが、手先は後補。
ほぼ直立するが、胸の中心と両足の間がまっすぐでなく、上半身、下半身それぞれの正中線にずれがあることがこの像の神秘的な雰囲気を出す要因のひとつになっている。
衣は強く刻み出すが、両足をくるんだ部分はその量感を強調してひだを刻まない。腹のあたりの衣のしつこいまでの線や両足の間に刻む弧、また足首の上で衣の端がわずかにゆれているところは風の流れをあらわすものと思われる。
そして、右側の胸から細くなって下がる衣の表現の不思議さ。あたかも菩薩像の垂下する天衣のように細い布が下がるが、どうやら袈裟の下につけた衣が肩を覆わずに細く折り畳まれ下がっている表現のようだ。
別材による両腕は木材を本体と同じ向き(縦材)で用いている。奈良・新薬師寺本尊の膝部を横一材を用いず縦材をいくつも組み合わせつくっているのと共通する。木が仏になるために、その木をどのように用いるべきであるのか、古代の人々の信仰の姿がそこにあらわれているのだろう。
脚部の衣の襞が足の量感を誇示しつつ、風動による揺れや襞をあらわすさまなどは、唐招提寺木彫群中の伝薬師如来立像に近いように思える。
なお、本像の伝来について、神願寺の旧本尊だったものが移されてきたのか、あるいは高雄山寺の旧本尊であったのか、長い間論ぜられてきた。全般的に神願寺旧本尊説が優勢であり、近年の論証によってこの説がさらに優位になっているようである。
神護寺のその他の仏像
本尊の左右に安置されている脇侍の日光・月光菩薩像は、像高約150センチの立像。ただし顔などは後補。向かって右側の日光菩薩像(膝上で天衣が反転している像)は右胸・右腕と下半身が当初部で、月光菩薩像はわずかに膝下だけが当初のものである。本尊と同じ内ぐりのない一木造の構造で、彫技もすぐれ、また何よりわずかに残された部分も大切に生かして像としていることから、古くからの本尊脇侍像と考えてよいと思われる。
しかし、下肢の衣の襞の粘りのあるような表現は本尊の衣とはまた異なるように感じられる。はじめからの一具ではなく、この寺が神願寺となってから加えられたものか。
その左右の四天王像、十二神将像は室町時代から江戸時代前期に加えられた像である。
多宝塔安置の五大虚空蔵菩薩像は、東寺講堂の五大菩薩像、観心寺金堂の如意輪観音像や観心寺霊宝館安置の伝宝生如来・弥勒菩薩像、安祥寺五智如来像(京都国立博物館寄託)といった平安時代前期の乾漆併用木彫の系譜上にある。これらは空海およびその法灯を継ぐ弟子たちが造像した密教彫像である。
普段非公開で、5月と10月に各3日ずつ公開される。別料金必要。
大師堂本尊の弘法大師像は板彫像で、1302年に仏師定喜によってつくられた。普段非公開で、11月上旬の7日間公開されている。堂内外陣からの拝観。別料金必要。
そのほか、木心乾漆造の薬師如来坐像(奈良時代)は京都国立博物館に、康円作の愛染明王像(鎌倉時代後期)は東京国立博物館に寄託されている。
その他(西明寺の仏像)
神護寺から徒歩15分くらい。清滝川沿いをさかのぼった北岸に西明寺がある。
最寄りのバス停は京都駅から周山方面へと向かうJRバスの「「槙ノ尾(まきのお)」。
清滝川の流れに沿って上流から栂尾、槙尾、高雄はあわせて三尾とも呼ばれる紅葉の名所である。
西明寺の創建は空海の高弟、智泉と伝える。鎌倉時代に再興され、戦国時代に再び荒廃していたのが江戸時代になって再建された。
本尊は釈迦如来像(鎌倉時代)で、向かって右脇壇に千手観音像(平安時代後~末期時代)が安置される。拝観料は500円。
本尊は清涼寺式の釈迦像であるが、サイズは小さい。清涼寺本堂の釈迦如来像が160センチの像であるのに対して、西明寺の像は50センチ強と、3分の1以下である。厨子に入っており、拝観位置からは若干の距離がある。ライトも当ててくださっているが、何ぶん像が小さいので、一眼鏡のようなものがあるとよい。
しかし小さいながらも存在感のある像である。まず目が大きく、瞳がくっきりとして、口もとはひきしまり、眉を高く上げて、とても凛々しい印象である。一木造で、手先は後補。衣ひだの彫りも見事で、弧の連なりが大変美しい。
さらに知りたい時は…
『神護寺 空海と真言密教のはじまり』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2024年
『日本美術全集』4、小学館、2014年
『仏教美術を学ぶ』、中野玄三・加須屋誠、思文閣出版、2013年
『古佛』、井上正、法蔵館、2012年
「神護寺薬師如来像の史的考察」( 『美術研究』403)、皿井舞、2011年3月
『週刊朝日百科 国宝の美』13、朝日新聞出版、2009年11月
『神護寺』(『新版古寺巡礼京都』15)、淡交社、2007年
『平安前期の彫刻』(『日本の美術』457)、岩佐光睛、至文堂、2004年6月
『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇』2、中央公論美術出版、1976年
『神護寺』(『古寺巡礼京都』5)、淡交社、1976年