さらば、我らが「カマキン」


 神奈川県立近代美術館の開館は1951年11月。戦後の公立美術館のくさわけである。
 1945年の敗戦の後、連合国軍による占領は1952年4月まで続いたので、占領下での開館であった。同時期に開館した美術館としては、東京都中央区にあるブリヂストン美術館(私立、1952年1月)および東京国立近代美術館(国立、1952年12月)があるが、神奈川県立近代美術館が一足早かった。
 敗戦、占領の頃、食べていくのが精一杯、それが日本の状況であった。しかしそうした時代であったからこそ、心の栄養としてのアートが必要でもあった。
 建物は鶴岡八幡宮の境内につくられた。しかし開館当初は所蔵品が1点もないという状況で、テーマに沿った作品を借りては展覧会を開催するということを年に10回といった回数で繰り返した。今の美術館ではほぼあり得ない回転である(開館50周年の時点で展覧会数は600回を越えていた。なお、時代とともに次第に所蔵作品は増加していった)。
 ちなみに、開館記念展は「セザンヌ、ルノアール展」。

 西洋の美術、近現代のアートに直接触れる機会がほんとうに少なかった当時、この美術館の果たした役割ははかりしれないものだった。
 なお、開館当初は誰も「神奈川県立近代美術館」などとは呼ばず、「カマキン」すなわち鎌倉の近代美術館と呼ぶのが常であった。

 この美術館の建物をつくったのは、坂倉準三(1901~1969)である。
 坂倉はル・コルビュジエの弟子である。コルビュジエはフランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエとともに「近代建築の三大巨匠」ともよばれる建築界の大立て者であり、坂倉はコルビュジエを慕ってフランスに渡りその弟子となった3人の日本人のうちのひとりとなった(あと2人は前川國男と吉阪隆正)。
 コルビュジエは生涯に3つ美術館を建てている。うち2つはインドにあり(チャンディーガール、アーメダバード)、残る1つは上野の東京国立西洋美術館本館である(1959年の作)。西洋美術館本館は1階にピロティーを設け、中央から斜路(スロープ)で2階の展示室に上がる。真四角な建物はどこからどちらを見ても同じような印象となっている。ただし、大きな作品を展示する場所とそうでない場所が混在し、天井が高い場所は低い場所の2倍となり、それがうまく組み合わさっている。実に見事なつくりである。


 坂倉準三がつくった神奈川県立近代美術館・鎌倉館は、国立西洋美術館と似ている。この2人は子弟であるので当たり前といえば当たり前ではある。


  しかし、2つの美術館には大きな違いがある。大きさ、外観の素材や色、また斜路から入場せず、正面階段から上がるようになっているところなど。しかし決定的に異なるのは資金の差であろう。コルビュジエの設計を最大限尊重し、国の事業としてつくられた西洋美術館本館とは異なり、「カマキン」は1県のしかも敗戦して数年後、占領下でという制約のもとにつくられたものなのだから。
 土地は八幡宮から借りており、建物の強度も十分とはいえず、近年のアート作品でよく見られる巨大な作品や重量のある作品の展示にはまったく向かない。
 しかし、八幡宮の池にふわりと舞い降りたかのような優美な姿は絶妙である。その姿はそれ自体一個のアート作品ともいえる。
  中庭に面した壁面は大谷石を用いている。国産の代表的な石材を用いるのは、西洋建築をただ直輸入するのでなく、日本の伝統素材を用いて文化の融合をめざしているという意味がある。もちろん、限られた資金で工夫をしているということでもあるが。バブルの時期など、全国であまたの公立美術館がつくられていったが、この「カマキン」を越える出来のものがいったいどれだけあるだろうかと思う。

 2003年、神奈川県は葉山に新たな近代美術館を開館。これはやがて訪れる鎌倉館の閉館に備えてのことであったろう。
  2016年の八幡宮との土地の貸借関係の終了とともについに「カマキン」は閉館となることが決まった。幸いなことに建物は壊さず、八幡宮が何らかの形で活用するという方向となりつつあるようだ。(なお、若干離れたところに建つ鎌倉別館は閉館せず、今後も展覧会活動を継続)

  最後の展覧会は、2015年10月17日から2016年の1月31日まで行われた。「『鎌倉近代美術館』誕生」と題し、そのスタートから15年間の軌跡を追体験することをテーマとして、当時の図面、写真資料などとともに、その時期に行われた展覧会に出品された主たる作品が展示された。


→ 神奈川県立近代美術館(外部リンク)