コラム05

鉄仏礼賛

 

 

 日本の仏像にまつわる謎の数々。「仏教公伝時にもたらされた仏像とは」にはじまり、「670年に法隆寺が全焼したとき、現金堂本尊はどうして無事だったのか」、「菩薩半跏像は弥勒か」、また「平安初期木彫の起源」、あるいは「一木造から寄木造への移行はいかにおこなわれたか」、さらには「運慶は願成就院や浄楽寺の仏像を東国に行って彫ったのか」等々。

 しかしながら、次の謎もゆるがせにはできない。先にあげた大いなる謎に比べれば、やや地味とはいえ。いわく、「なぜ鉄仏は造られたのか?」

 

 鉄仏は全国で100躰ほどが知られている(懸仏や狛犬も含む)。金属の仏像としては金銅仏に次ぐ。そのうちの大半が東日本に分布し、制作の時期としては鎌倉時代から江戸時代である。

 

 仏像の素材として、鉄は銅よりもはるかに扱いにくい。

 溶かして型に流し込むという技法(鋳造)であり、それは基本的には銅と同じだが、溶かす時高い温度が必要となる。にもかかわらず、仕上がりは銅のような滑らかさが期待できない。銅と比べて固い素材であるため、型の継ぎ目のところにそってできてしまう凸の部分(バリ)を削りとることが困難である(しばしば鉄仏ではバリがそのままとなっているのはこのためである)。銘文を刻むことも難しい(銘文を入れる場合には、型にあらかじめ左文字で削り込んでおくと、それが陽鋳となる)。加えて、表面が滑らかでないため、鍍金(金メッキ)もしにくい(現在見られる鉄仏のほとんどが鉄の地肌を見せているが、かつては下地を施した上に、漆箔か彩色をしたものと思われる)。

 固い素材であるといって、銅に比べて長く堅牢さを保つというわけではない。空気中の酸素と結びついて、サビが発生しやすいからである。

 

 このように、制作時もそれ以後も扱いにくい鉄という素材をわざわざ用いてなぜ仏像を造ったのか、不思議というほかはない。

 

 中国では古来銅が手に入りにくく、銅の使用は法令で禁止や制限され(禁銅令)、そのため早くから鉄仏の作例があるらしい。宋代の仏像の様式が日本に入ってきた時に、鉄で仏像を造るということも伝来したのかもしれない。日本においても、銅の産出量が飛躍的に増大するのは室町時代になってからであり、鎌倉時代にはじまった鉄仏は銅の代用品という側面があったという説もある。

 確かに鉄は固く鋳あがりは悪いが、それが逆に東国の武士の好みにあったという可能性もある。愛知・青大悲寺の地蔵菩薩像(室町時代)には、刀を鋳込んで戦死者の菩提を弔ったという伝承を持つ(鍛造である刀を鋳込むということは、実際には技術的にほとんど不可能だそうだ)が、武士と鉄と仏像を結びつける話として面白い。今のところこの東国武士の好みに合致したという説は、一定の説得力をもつようだ(実際、鉄仏は東国に多く伝来する)。

 

 いずれにしても、鉄は造仏に向いた素材とはいえないというのは間違いない。にもかかわらず、あるいはそれだからこそ鉄仏には何ともいえない魅力がある。難しい素材であるほど作り手や守り手の知恵や苦労が自ずと現れるからであろうか。整っていない像容のものが多いが、他の素材の仏像にはない味わいがある。

 

 

 

(付記)愛知・青大悲寺は名古屋市熱田区旗屋1−10−39、鉄造地蔵菩薩像は通りに面した地蔵堂に安置され、ガラス越しに拝観できる。

 

 

(参考)

『鉄仏』(佐藤昭夫、至文堂『日本の美術』252 、1987年5月)

『日本の鉄仏』(佐藤昭夫・中村由信、小学館、1980年)

 

 

 

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