コラム03

秘仏 なぜ仏を隠すのか・上

 

 

 普段は厨子などの扉が閉まり、直接拝観できない仏像が秘仏である。

 日にちを決めて開扉するものと、まったく拝観できないものがあり、後者を「絶対秘仏」とよぶこともあるらしい。浅草の観音さまや信濃の善光寺の観音さまはその典型例だが、長い年月誰もみたことがなく、姿はみえなくてもそこにあるということが有り難いと参詣が絶えないというのは、信仰のない私には理解を越える。

 「絶対秘仏」ではなくとも60年だか99年だかに1回開扉といった秘仏もあり、どうしてそういうことになっているのかこれまた理解が及ばない。何十年に一度の開扉の大祭のために仏さまを守り、長年にわたって準備をしていくことで共同体の絆となっているようなこともあるかもしれないので、一概に否定するような言動は控えるべきと思うが、「生涯に一度の機会だ! これを見なければ〜」と駆けつける気にはあまりなれない。

 

 現在でも仏像の公開に積極的な寺院、消極的な寺院があるように、古代にも同じような例がある。

 平安時代中期に比叡山の源信によって再建された関寺の弥勒像について、源信の遺言により行き交う大勢の人が拝めるよう配慮したという話が『今昔物語集』にある。これは公開に積極的な例といえるだろう。一方、平安前期の9世紀末に成立した『広隆寺資財校替実録帳』には、3尺の霊験薬師仏がカギのかかった厨子の中に安置されていると記されており、このころ早くも秘仏が成立していることがわかる。12世紀前半に奈良を巡拝した記録にも、法隆寺夢殿の救世観音像や元興寺の中門観音など、宝帳を垂らしているため拝観の難しい仏像があるといった記述が見える。

 

 ところで、先の『今昔物語集』の説話からは、積極的に公開する理由は多くの人を仏縁に結ぶところにあるということが明快にわかる。では逆に、秘仏とする理由は何であろうか。

 秘仏というしくみがはじまったのが平安前期であり、広隆寺の実録帳にあるように「霊験仏」という言葉をキーワードとして考えるならば、密教や神仏習合と関係がありそうであるが、はっきりとそれを裏付ける史料があるかというと難しいようだ。推測するならば、秘仏とは神秘性の強調であり、普段目に触れなくしている像をわずかな期間開くという行為が、仏が目前に姿を現すことの擬似的体験となって人々を引きつけるとの判断によるのであろう。

 

 仏像が信仰のための聖像である以上、こうした仕組みをとる寺院があるのはやむを得ないことだ。だが、同時に仏像は文化財でもある。特に日本の仏像の大部分を占める木彫像はカビや虫の害に弱く、普段からの丁寧な管理と損傷の早期発見、修復が不可欠である。「住職1代に1度だけの開帳で、信者ばかりか寺の人もその時以外は拝見できない厳重な秘仏」という仏像もあるやに聞くが、保存上の観点からは不安を感じる話である。実際、『秘仏』(毎日新聞社)によれば、開扉してみたら傷みが進んでどうしようもなくなっていた、あるいはなくなっていたということも皆無ではないという。

 

 さて、以上は何十年に一度だけ公開するという秘仏についての話だが、多くの秘仏は、1年や1ヶ月の中の決まった日を縁日として開扉するという形をとっている。これは、信仰上の理由とともに、人手の少ない寺などでは常時公開という体制が取りにくいという事情によることもあるように思われる。拝観する者にとっても、決まった日に行けば必ず仏像にお会いできるというのはありがたいし、縁日に集う地元の方の姿や法要があればその様子など、それぞれの寺院ごとに個性があり、興味深い。

 秘仏の開扉日を知るためには、本では『新・全国寺社仏像ガイド』(美術出版社)、その他インターネット上でいくつか役に立つサイトがある。

 

 ところで、縁日など特定の日に仏像を開帳するというならわしは欧米では考えられないだろう(例えば、キリスト像が厨子の中にあって、特定の日しか公開しない教会というものがあり得るだろうか)。このような伝統の違いがあるので、欧米の展覧会は常設展示中心(重要な作品はいつもそこにあることが大切)だが、日本の展覧会は企画展・特別展中心(特別公開などと銘打つ企画展は人が集まるが、常設展は人気がない)なのだという説もある。なかなか面白い視点である。

 

 

参考)「生身仏像論」(『講座日本美術史』4)、奥健夫、東京大学出版会、2005年

   『彫刻の保存と修理』(『日本の美術』452)、根立研介、至文堂、2004年

   『日本の秘仏』、コロナブックス編集部、平凡社、2002年

   「秘仏の世界」、頼富本宏(『秘仏』、毎日新聞社、1991年)

   「『秘仏』誕生の背景を探る」、藤澤隆子(『秘仏』、毎日新聞社、1991年)

 

 

 

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