コラム07

仏像はどのように衣をつけているか

 

突然ですが、ここで問題です。

写真の2躰の仏像ですが、衣のつけ方は同じだと思いますか。

それとも異なっていると思いますか。

異なっているとしたら、それはどこでしょうか。

 

右上は鎌倉大仏です。衣を「通肩」という着方で着ています。ほぼ左右対称の着方です。

 

一方、左の仏像もほぼ左右対称のように衣を着ているように見えますが、実は違います。

衣を2枚重ねにして着ていて、左肩(向って右側の肩)は上の衣が、右肩(向って左側の肩)は下の衣が見えています。

ややわかりにくいですが、右胸の下で衣が繰り出されるように見えているのがポイントです。

 

 

07ー1 仏像の衣が気になりませんか?

 

 仏像を見ていると、着衣が気になってしかたないということがありませんか。どう着ればあんな風になるのかな、と。

 仏像が生まれたのは釈迦の死後500年以上たってからであり、かつ日本の仏像は伝来の過程で中国や朝鮮の当時の服制の影響も受けていたりもするので、仏像の着衣も、まあそれらしく見えるといった程度のものになっている可能性もあります。あまり細部にばかりとらわれずに拝観するのがよいのです。

 これではずり落ちるのではないかといった衣の着方をしているお像もありますが、それこそ余計な心配というもの。仏さまのことですから、衣にも重さなんてないのです。また、美術的に見るなら、あまり説明的に細部をつくりこんでいるお像よりも、やや大胆な造形の仏像の方が魅力的だったりもするのです。

 でも、それでも、つい衣の着方を気にしてしまう私がいます。あなたはどうですか?

 

 

 

07ー2 如来の着衣、菩薩の着衣

 

 いうまでもなく、仏像のモデルは紀元前に北インドで活躍した仏教の開祖、釈迦です。彼はシャーキャという小さな一族の王子として生まれ、出家し、遂に悟りを開いてブッダ(目覚めた人)となりました。釈迦族の聖なる人、すなわちシャカムニ、それを略して釈迦、釈尊といい、ブッダに漢字をあてて仏陀、それを略して仏、また意訳して如来(真如の世界から来たりしもの)という言い方もします。

 悟りの境地は一切の虚飾とは無縁ですので、古来仏教の教団では粗末な布をつぎあわせた衣だけを着用したといいます。どれくらい粗末なものかというと、糞掃衣(ふんぞうえ)という言い方さえあったくらい。これにならって、如来像は、長方形の大きな布をまとっただけの姿で表現されるのが基本です(下半身には裙(くん)という巻きスカートを着けています)。

 一方、悟りへの途上にある菩薩像は、釈迦の出家前の姿にならい、王子としての姿、すなわちさまざまな飾りをつけ、髪を結い、天衣(てんね)という細い衣や条帛(じょうはく)という襷状の布を美しくまとって表されます。下半身に裙をつけているのは如来と同じです。

 

 以上から、如来の着衣は単純で、菩薩は複雑であると感じられたかもしれません。下半身の裙は共通として、如来はそこに大きな布をまとっただけ、一方菩薩はいろいろと装飾的なものを着けているのですから。

 しかし実際は逆、つまり如来の衣の方が理解が難しいのです。

 菩薩像では、両肩から左右に垂下する天衣がやや複雑に交差していたり、裙が腰の上で少し複雑な形で折り返されたりしていることはありますが、条帛の端はどうなっているか、天衣がどう回って下へとおりているか、じっくりと見ていると理解するのは難しくありません(像によっては裙の上に腰布を巻いていることがあり、坐像の場合やや分かりにくいことがありますが)。

 しかし、如来像の着衣は、どう着たらこうなるのかと思うことがあります。

 

 

 

07ー3 袈裟について

 

 如来像の着衣を理解する難しさは、次の3つの理由によると思います。

その1 重ね着をしていることがある。

その2 肩を出す着方をしていることがある。

その3 固有名詞が難しく、覚えにくい。

 固有名詞については、普段使わない用語ですので、難しいというか馴染みがないのは仕方がありません。おいおい分かってくるし、覚えなくても、「2枚目の布」といった感じで理解してもらえば大丈夫です。

 

 ところで、如来が着ている長方形の衣ですが、袈裟(けさ)と呼ぶのがよいようです。

 袈裟にも三種あり、三衣(さんえ)といいます。作務用・説法用など用途にわけて3つの衣を持つよう釈迦は指導したと伝えられています。

 袈裟は小さな布を継ぎ合わせてできていました。布を縦に継いだものを条といい、これを横にいくつもつないでいくと、「七条の袈裟」とか「十五条の袈裟」等となります。三衣の中で大きなもの、九条以上ものを大衣といい、訪問や説法に使われました。

 袈裟を、大衣あるいは衲衣(のうえ)と呼んでいる解説書がありますが、大衣は三衣のひとつであって、イコールではありません。ただ仏像の場合、基本的に大きな袈裟をまとっているので、大衣と呼んで間違いではないとは思います。

 衲衣は、日本では宗派により特に七条の袈裟を指す場合があるようです。しかし元は粗末な布を継ぎ合わせたものという意味なので、袈裟とほぼ同じように使ってこれも間違いではないと思われます。

 ただし、いずれもまぎらわしいので、袈裟という言葉を使うのが妥当かと思います。

 

 

 

07ー4 通肩と偏袒右肩

 

 前置きが長くなってしまいましたが、いよいよ如来の衣のつけ方へとまいりましょう。まずは、一番単純な着方からです。

 下半身に巻きスカートである裙を着けます。その上に袈裟を1枚ぐるりと巻くと、これが如来像の一番単純な着衣となります。

 腕のところに注目してください。もともと1枚の長方形の布ですから、袖のように見えて実際は下は閉じていないのです。立像を見ると分かりやすいです。

 

 袈裟は左半身から左肩、背中、右肩から胸へと全身をぐるりと覆って、最後は左肩から背中側に下がります。これが基本です。シーツなどを使うと体験できますので、仏像になった気分でやってみてください。

 さて、このようにしっかりと両肩から全身を覆うと、それが通肩(つうけん)という着方となります。首から上と手首、足首だけが衣から出て、左右対称に近い姿となります。清凉寺式釈迦像がその典型例です。有名なところでは鎌倉大仏もそう。ただ、鎌倉大仏の場合は胸をビシッとは覆わず、ゆったりとあけています。

 この通肩という着方は如来の着衣の基本であるはずなのですが、遺例があまり多くないのは不思議なことです。常行三昧行の本尊の阿弥陀像(宝冠阿弥陀像)など特別な像で見られますが、一般の仏像ではあまり例がないようです。

 

 これに対して、左肩は覆うものの、右肩はあらわに出し、衣は右の腋の下を通って体を巻く場合があります。これを偏袒右肩(へんたんうけん、または、へんだんうけん)といいます。

 釈迦は弟子たちに、肩や胸を露出させてはならないと言ったと伝えられますが、いつのころからかこの偏袒右肩に着ることが行われるようになり、その姿の仏像も造られるようになりました。肩を見せるというのは不作法なようですが、おそらく現代でも南アジアや東南アジアで行われている「右が聖なる側」という考えと関連していると思われます。すなわち、右側を見せることは、相手に対する敬意であるといったような…

 このように着ると右胸と左胸や腹の一部も見えます。

 ただし、この右肩を完全に見せている仏像もそう多くはありません。例えば岐阜県・延算寺の秘仏・薬師如来立像はこの姿です。

 

 右肩にちょっとだけ衣を残して右腕や右胸を出している仏像があります。これは偏袒右肩の変形と考えられます。この姿の仏像は多く見られます。

 

 

 

07−5 衣を2枚着た仏像

 

 インドを旅した玄奘三蔵は、その著『大唐西域記』の中で、インドの僧の服装は、三衣(袈裟)、僧祇支(そうぎし)、裙(下半身の布)の組み合わせが基本であると述べています。

 僧祇支は袈裟の下に着けた布で、おそらくは下着代わり。もとは比丘尼(びくに、女性の出家者)のものであったのが、男性の僧にも広まったようです。

 

 僧祇支は、マントのように背中から体を覆って、体の前で合わせます(僧祇支を前で結ぶ紐が見えている仏像もあります)。従って、僧祇支も袈裟同様長方形の1枚の布ですが、横の長さは体をぐるりと巻く袈裟よりは小さいと考えられます。

 腕を上げると袖のように見えますが、実際は袖と違い下は開いているというところは袈裟と同様。その上から袈裟を着るので、袖が重なり合っているようにも見えます。

 清凉寺式釈迦像は袈裟、僧祇支を重ねて通肩に着て、下半身では、上から、袈裟、僧祇支、裙の順で布が重なっている様子を見せています。

 

 

 

07ー6 左肩は袈裟、右肩は僧祇支が見えている仏像

 

 さて、ここからがいよいよ佳境となります。

 上に袈裟、下に僧祇支を重ね着し、かつ上の袈裟を偏袒右肩に着たらどうなるでしょうか。左肩は袈裟と僧祇支2枚に覆われています。袈裟は右の肩は覆わずに右の脇の下をくぐりますが、僧祇支は右肩を覆っていて、いったん袈裟の下になりながらも、そこからたぐり出されるようにして右腕を覆います。つまり、左の肩と左腕は2枚の布に覆われ、右の肩と腕は僧祇支だけによって覆われるという、左右対称を破った形となります。

 ポイントは右半身の胸の下あたりで袈裟の下から繰り出されているように見える僧祇支です。大きめのタオルケットを下に、その上にシーツをまとって真似をしてみると、なるほどそのようにもなるのがわかります。

 また、この姿の仏像を後から見る機会があれば、上の衣である袈裟の線が、左肩から右の腋の下へと斜めに刻出されているのが見えます。そこから上(右肩)は僧祇支が出ているのがよくわかります。

 

 もともと袈裟は粗末な衣の継ぎはぎであったわけですが、体が金色に輝いたという仏さまがまとうのですから、仏像の衣も金色に、あるいは美しい彩色がほどこされました。その仏像が彩色像であったのなら、袈裟と僧祇支は別の色で塗り分けられていたでしょう。さらに袈裟や僧祇支の衣の端が反転している造形を見せている像がありますが、それぞれの衣の裏側はまた別の着色がなされていたと思われます。

 私たちがよく見る仏像は木の素地の色をあらわにしているものが多いですが、仏像がつくられたばかりの時、その像が2枚重ねで袈裟を偏袒右肩に着れば、体の左右で違う色が見え、これに折り返し部分がまた異なった色合いを見せて、さぞや神々しかったと思います。

 

 

 

07−7 中国で加わったもう一枚

 

 インドで生まれた仏像は、東漸して中国、朝鮮を経る間に、着衣も変化していきました。菩薩像では、朝鮮半島の装身具が起源かなと思えるようなものを付けている場合があります。

 如来像では、僧祇支の下にさらに下着を着けるものが登場しますが、これは中国の着衣の影響が入ったものと考えられます。これを汗衫(かんさん)、あるいは偏衫(へんさん)といいます。シャツに似ていますが、左肩だけでつっているものが多く、片方なので偏衫ということが多いようです(ただし、稀には右肩でつっているものや両側あるもの、さらに袖を持つものもあるらしい)。

 袈裟(+僧祇支)を偏袒右肩に着て大きく胸を開けた仏像で、おなかのところに斜めにもう一枚衣のようなものが見えることがあるのがこれです。肩からつっている薄い布であるので、僧祇支と違って細かな襞(ひだ)を表現することは基本的にありません。

 法隆寺金堂本尊や薬師寺金堂本尊など古代の仏像で多く見られますが、鎌倉時代の慶派の仏像でもこの偏衫らしき下着をつけているものがあり、彼らが古典をよく学んでいたことが分かります。

 

 

 

07ー8 やっぱり仏像の着衣はおもしろい

 

 快慶作の浄土寺浄土堂本尊・阿弥陀如来像は、偏袒右肩の袈裟+僧祇支+偏衫という複雑な着衣をした仏像の代表例です。

 肩を見ると、一見左右対称のように見えますが、袈裟は右の脇の下を通っているので、右の肩に見えているのは僧祇支です。僧祇支はいったん袈裟の下に入り、右胸のあたりでたぐり出されるような姿を見せて、右腕を覆います。一方左腕から下がる衣はよく見ると2枚重ねで、左半身は袈裟と僧祇支の2枚をまとっているのがわかります。

 僧祇支の下に偏衫をつけています。左肩からつっている偏衫の線が胸のところに見えます。

 さらに右肩には袈裟をちょっとだけ残して乗せていますが、これは前に紹介しました偏袒右肩の変形版と考えられます。インターネット上の百科事典の中にこの仏像の画像を紹介したものがありますので、じっくり見て確認してください。

 もっともこの仏さまは、宋画を元につくられたことが分かっていて、細部には理屈どおりでないところもあるのかもしれませんが。

 

 まげを美しく結い、華やかな冠やアクセサリーをつけ、天女の羽衣のように軽やかな天衣をまとう菩薩像、かたやアクセサリーはなく、頭もくりくりで、長方形の布だけをまとった如来像。どちらが華やかなのかはいうまでもありません。しかし、像によって印象がずいぶんと異なっているのは、如来像も菩薩像に劣りません。そしてその印象は、衣の着方のバリエーションによって、大きく左右されているのです。

 仏像の衣、やっぱり気になります、よねっ!

 

 

 

*如来のまとう衣の名称には議論があります。上の文は、次の文献を参考にしています。

 

『仏像の鑑賞基礎知識』、光森正士・岡田健、至文堂、1996年

「仏像の着衣《僧祇支》と《偏衫》について」(東大寺図書館『南都仏教』81)、吉村怜、2002年

「古代比丘像の着衣と名称ー僧祇支・汗衫・偏衫・直とつについて」、(東京国立博物館『Museum』587)、吉村怜、2003年

「古代仏菩薩像の衣服と名称」(『国華』1332)、吉村怜、2006年

 

違った考え方に立って解説している本も多くあることを申し添えます。

 

 

 

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