コラム09

聖林寺十一面観音と大御輪寺

大直禰子神社
大直禰子神社

 

1 はじめに

奈良時代の木心乾漆造としてつとに名高い奈良県桜井市・聖林寺の十一面観音像は、もとは同じ桜井市の大神(おおみわ)神社の関連寺院であった大御輪寺(だいごりんじ)の本尊であった。その伝来について、改めてまとめておこうというのが本稿の目的である。

以下、やや煩雑だが、お付き合いを願いたい。

 

 

2 大神神社と大御輪寺について

桜井市にある大神神社は、三輪山そのものをご神体とする日本最古の神社のひとつとして知られる。

この神社にも古代から近世ににかけ、神仏習合の風によって神宮寺が設けられていた。大神(おおみわ)寺といい、『延暦僧録』(788年成立)に名前が見えるので、奈良時代にはすでに存在した。

大神寺は平安時代後期ごろには荒廃したらしいが、鎌倉時代後半に復興し、寺名も大御輪寺(だいごりんじ)と変わった。一方、平等寺および浄願寺(尼寺)という別の神宮寺も置かれ、その場所は本社に対して大御輪寺は北西、平等寺は南、浄願寺はその西にあったことがわかっている。

次第に平等寺が大神神社の別当寺としての地位を高め、大御輪寺は大神神社の祭神の中の若宮についての別当寺という立場に落ち着いたらしい。

 

大神寺は平安時代、多武峰(妙楽寺)の末寺となったが、興福寺との抗争(『多武峯略記』に記事あり)、その末寺化を経て、鎌倉時代に大御輪寺となってからは西大寺末であった。江戸時代の文書にも「西大寺末」とある。しかしその間も興福寺の力によって維持されていた時期があったようだ(『大乗院寺社雑事記』)。

 

近代初期の廃仏によって大神神社の3つの神宮寺はすべて廃されたが、平等寺のみのちに再興されている。

大御輪寺の遺構としては、本堂が大神神社の摂社(本社に所属する小神社)である大直禰子(オオタタネコ)神社の社殿として現存する。そのほか、旧客殿が桜井市の文殊院に移されて、庫裏として使用されている。

 

 

3 大御輪寺の旧仏の行方

大御輪寺が廃寺となった近代初期、その本尊だった十一面観音像は聖林寺へと移された。

1873年に聖林寺の本堂北側に増築部分を設けて安置されたようで、同じく大御輪寺から移された天蓋が今もその場所には取り付けられているそうだ。本来秘仏であったのを聖林寺でも受け継いだらしいが、1886年に岡倉天心とフェノロサが調査に訪れたことをきっかけに秘仏を解かれたらしい。この時の天心のメモにも、像は大御輪寺の旧仏と書かれている(『岡倉天心全集』)。

 

この像の脇に安置されていた地蔵菩薩像も同時に聖林寺に移されたが、その後法隆寺北室院に移座され、今は法隆寺大宝蔵院に安置されている。また、桜井市の玄賓庵の本尊の不動明王像ももとは大御輪寺本堂あるいは護摩堂にあった像である。

 

このほか、大御輪寺の旧仏と伝えられているものに、天理市の長岳寺の二天像がある。奈良市の正暦寺瑠璃殿安置の日光・月光菩薩像も大御輪寺より移されてきた像である。

また、再興された平等寺の秘仏本尊の十一面観音像について、聖林時十一面観音像が大御輪寺本尊であったときのお前立ち像で、ともに聖林寺に移され、のちに平等寺にもたらされたものなのかもしれないという推論がある(「大神神社の神宮寺を探る」)。

 

大御輪寺本堂を受け継いでいる大直禰子神社には若宮神像が伝えられているが、これは大御輪寺の時代からそこにまつられてきた像である。残念ながら拝することはできない(非公開)。近代初期に描かれた画像があり、精悍な顔だちの坐像であることが知られる(「大御輪寺の仏像」)。

また、社殿の天井裏から乾漆仏像の断片や平安時代とみられる小地蔵菩薩像(像高十数センチの立像)が発見されている。乾漆仏は、聖林寺十一面観音と異なる脱乾漆造で、丈六レベルの仏像とみられる。

 

 

4 十一面観音像、聖林寺へ

聖林寺の十一面観音像が大御輪寺旧本尊であるということは、単なる言い伝えでなく、先学の研究によって明らかである。以下、整理してみたい。

 

聖林寺には2通の預かり証文が伝えられている。本尊十一面観音像、前立十一面観音像、脇立地蔵菩薩像および仏具等を当分の間預かるという内容で、1868年5月の日付がある。これを書いたのは当時の聖林寺住職で、1通を大御輪寺側に渡し、1通は控えとして持っていたが、数年後、大御輪寺に渡った1通が聖林寺に戻された。この時点で、大御輪寺の再興が絶望的となったからであろう。これによって観音像が名実ともに聖林寺の仏像となったわけである。

証文によれば、本尊、秘仏、像高8尺と書かれる。実際には像高は209センチ(髪際ではかれば181.9センチ)であるので、若干大きめの表記となっている。

 

この裏付けとなる史料として、大御輪寺側の人物が書いた記録がある。

大御輪寺最後の別当であった大昶という人の残した「子孫の訓示」という一文がそれで、十一面観音像を聖林寺に移したとある。そこには、像高8尺、秘仏、聖徳太子作と伝え、叡尊以来800年間若宮の本地仏としてともにまつってきたもので、若宮・オオタタネコの母神の化身ともいわれるものだと書かれている。基本的な内容は聖林寺に残る証文と一致する(「聖林寺十一面観音と大御輪寺」)。

以上から、聖林寺十一面観音像はもとは大御輪寺本堂にまつられていた秘仏本尊であったことは明らかである。

 

この像について、道ばたに打ち捨てられていたのを聖林寺住職が拾った、あるいは縁の下に転がされていたのにフェノロサが気づいて、聖林寺に引き取ってもらったなどのまことしやかな話が伝わるが、真実でない。本像は指先や垂下する天衣に至るまで奇跡のように保存状態がよく、廃仏の嵐の中にあっても決して粗略には扱われてはいなかった。聖林寺にもたらされたのは、それ以前から大御輪寺と聖林寺が(さらにはその後地蔵菩薩像が引き取られていった法隆寺も)つながりをもった寺院であったからである(「聖林寺十一面観音像とフェノロサ」)。

 

なお、大御輪寺には本堂のほかに三重塔や護摩堂などの堂宇があったことが分かっているが、今日あとかたもない。そうした中で現大直禰子神社社殿(すなわち大御輪寺旧本堂)だけが残されたのは不思議だが、これは中世以来若宮の神像があわせてまつられていたお堂であったからだと思われる。

 

 

5 光背の問題

本像には奈良時代の光背が付属している。大破しており、台座に接続する部分などをはじめ、一部が残るばかりとなっていて、奈良国立博物館に寄託されている(なお、台座は当初のもの。台座の穴と光背残欠の下部は寸法があっており、この像のものであることは確かである)。

光背の破損は、すでに述べたが、聖林寺に移される際にひどい扱いを受けたためというのではない。かなり古い時代に壊れ、天井裏などに別置されていたらしい。

 

現在残る光背断片の総高は240センチである。しかしこれはあくまで一部分であり、いくつかの復元案がある。そのひとつによれば、光背高は380センチとなり、これに台座やその下の框を入れると全部で411センチの高さになるという。これに対して大直禰子神社社殿(すなわち旧大御輪寺本堂)は立派なお堂なのだが、その天井高は意外に低く、光背を含めて4メートルという像はおさまらない(別の復元案ではもっと低い光背が想定されている。光背をめぐる論争はここではこれ以上立ち入らないが、なかなか興味深いので、最後に紹介する論文をお読みいただければと思う)。

しかし、上記のように光背が大破したのはずっと前の時代であると考えられるので、本像は長い間光背のない状態で大御輪寺本堂に秘仏としてまつられてきたと考えられる。

 

 

6 大御輪寺本堂の変遷について

大直禰子神社社殿、すなわち旧大御輪寺本堂は1987年より約3年をかけて解体修理され、詳細な報告書が出されている(『重要文化財大神神社摂社大直禰子神社社殿修理報告書』)。それによると、近代初期に仏像を取り払い神壇をつくる改造がなされているが、それ以前にもあわせて5回の改修が行われていることが知られるという。

 

調査によると、この場所に最初にお堂がつくられたのは、奈良時代後期である。大神神社の神宮寺として創建された大神寺の一堂であったものと考えられる。

この時点では、今の社殿の内陣とほぼ同じ位置に正堂が、その前方に礼堂が別々の建物としてつくられていた。古代の双堂の形式である。礼堂は吹き放ちの空間で、正堂も切妻造、檜皮葺き、床張りの簡素なつくりであった。

 

最初の大きな改修は平安後期で、部材の取り替えのほか、棟木を高くして屋根の勾配を強くし、また垂木(たるき、棟から軒にかけて斜めにかけられた構造材)に化粧裏板を貼るというものだった。

 

次の改修は鎌倉初期で、礼堂を解体して正堂に接続させ、また天井が張られた。現在に近いプランとなったのがこの時ということになる。

 

3度目の改修は鎌倉後期で、入母屋造、本瓦葺となり、内陣の床を取り払って土間とし、土築の仏壇を構えて仏像の安置空間が整えられた(外陣は床張りのまま)。本格的な仏堂となり、大御輪寺と寺名が改められたのがこの時である。

 

室町時代(4回目の改修)になるとお堂は床張りに戻され、その他いくつかの変更が行われたが、注目すべきは東北隅に独立した一室が設けられたことである。ここが若宮をまつる場所であったと考えられる。

その後江戸時代前期に比較的小規模な改修が行われて、近代に至る。

 

 

7 十一面観音像が鎌倉後期からの本尊か

ここまで見てきたように、大御輪寺の前身は大神寺である。大御輪寺の旧本堂は何度も改修を受けながらも、奈良時代のおそらくは大神寺創建当初から同じ位置で立ち続けてきている。

こうした連続と変遷の中で、現聖林寺十一面観音像はいつからこのお堂の本尊であったのだろうか。奈良時代作の像だが、大神寺の時代のお堂以来の本尊であったといえるであろうか。

 

大直禰子神社社殿の調査報告もこの問題にふれている。それによれば、十一面観音像は、鎌倉後期の改修時に本尊として迎えられたのではないかという。

鎌倉後期の改修によりこのお堂は本格的な仏堂として機能するようになったのであり、要するに何度かの改修の中でも画期をなすものであった。

この時大神寺を復興して大御輪寺としたのは、西大寺の叡尊(えいそん、えいぞん)である。叡尊は新しいお寺をつくるよりも、由緒はあるが衰退していたお寺を復興し、各地域の拠点としていく方法を好んで行った(「叡尊と大和の西大寺末寺」)。仏像に関しても、新たに造像するよりも由緒ある奈良朝の古仏を選んで本尊として安置するという選択をしたのかもしれない。また、若宮の母の御影として十一面観音を積極的に選択したのだといった議論もある(「叡尊による大御輪寺復興と十一面観音」)。

 

さて、ここでも本像の光背高が問題になる。当初のお堂では天井がはられず屋根裏がむき出しであったが、鎌倉前期以来、天井が設けられた。これにより建物内部は低くなり、光背高を考えれば十一面観音像は入らないのではないか。

しかし、近代以前、破損した光背は別置され、本尊は光背のない状態で安置されていたわけであり、その状態が鎌倉時代後期以来のものであったと考えれば、安置に問題はない。逆に、光背の破損は奈良時代からこの時期までの500年の間と推定できることになる。

 

一方、大直禰子神社社殿の調査中に1303年の年記を有する一通の文書が発見されたが、そこには観音経について言及があり、本寺の観音信仰が確かめられる。つまり、この時点で観音像が本尊だったことの傍証ということになる。さらに下っては若宮の本地として十一面観音への信仰がさまざまな史料からわかっている。これらのことから、鎌倉時代以後この寺が一貫して十一面観音の寺として信仰を集めていたことが知られ、これはこの間ずっと現在聖林寺にある十一面観音像が大御輪寺本尊であったことを示唆しているといえる(逆に、そこからさらにさかのぼって、この寺に観音信仰が根付いていたことを示す材料は見つかっていない)。

 

以上のように考えるならば、十一面観音像は叡尊によって別の場所から移されてきたことになる。では像の原所在地はどこであったのだろうか。

残念ながらここから先は模糊としてわからない。

大直禰子神社社殿の屋根裏より丈六乾漆仏ので断片が見つかっているので、そうした大きな仏像がおさまるさらに大きな堂が大神寺にはあったのだろう(つまりこのお堂は本来の本堂ではない)。大神寺にはこのような今は失われたお堂が別にあり、そうした場所に安置されていたのであろうか。または、叡尊の関与が考えれる近隣の由緒ある寺院の安置仏であったものか。

 

 

8 原所在地についての別の説

別の考え方もある。それは、現聖林寺十一面観音像は大御輪寺本堂の前身となる奈良時代の創建の建物の時からの本尊だったというものである。

当然ながらその時は光背も完備した状態であったが、当初の建物は天井を張らない簡素なものであったがゆえに内部は高く、像が十分におさまるスペースが確保されていた。双堂形式のため、正堂に人が入ることは想定されていず、その手前の礼堂からは、適度な角度によって礼拝ができる。なお、奈良時代屈指の名像である本像の安置場所としは当初のお堂はあまりにも簡素で釣り合わないとの議論もある一方で、都の官寺とは異なる神宮寺のお堂として不自然とまではいえないという意見もある(奈良時代の神宮寺のお堂のスタンダードについて、わかってはいないのだが)。

 

また、次のような見解も出されている。

もし叡尊が本堂の改修にあわせてこの仏像を他の場所から移し本尊としたのであれば、必ずや光背を完好な状態に復し、またそれに調和するお堂の改修を行うに違いない。しかし光背は破損したまま本体のみを安置したということは、とりもなおさずこの仏像がそれ以前からこの場所で光背のない姿でまつられていたからではなかったかというものである。

これもなかなか面白い着眼点と思う。

お堂を本格的に改造した鎌倉後期からなのか、それ以前からの本尊なのか、その決着は今後の論議や新たな発見を待たなければならないだろう。

 

ところで、乾漆の仏像は特別な技術と材料が必要であり、また本像の優れた造形を思えば、つくられたのは平城京の官営の工房と考えるべきであろう。もし本像が大神寺創建時以来の仏像であるとするならば、安置の経緯はいかなるものであったのだろうか。

奈良時代後期に大神神社に封戸が施入された記録があり、国家の保護を受けて興隆の時を迎えていた。

また、奈良時代に活躍した文室真人浄三という人物が鍵を握っているという推論がある(「聖林寺十一面観音像の制作と智努王」)。彼は天武天皇の孫で、もと智努王といい、宮都、陵、官寺の造営にたずさわるなどの活動を行っている。仏教信仰厚く、東大寺関連の地位にもつき、かつ大神寺に関わりを持っていたことが知られている。

 

 

9 聖林寺十一面観音像をめぐる知の旅

以上のように、聖林寺十一面観音像は奈良時代後期におそらく平城京の造仏所で誕生し、大神神社神宮寺として設けられた大神寺に安置された。しかし、それがのちの大御輪寺本堂(現在の大直禰子神社社殿)の前身となるお堂であったのか、別のお堂であったのかはわからない。また、それ以外の近隣寺院である可能性も排除できない。

大神寺は鎌倉後期に叡尊によって復興されて大御輪寺となった。もし本像が別の寺院、あるいは別のお堂にあったとすれば、この時移座されて、大御輪寺本尊となったと考えられる。大御輪寺は大神神社若宮の別当寺として、本像は若宮神像とともに長く尊崇の対象となり、近代初期までその秘仏本尊であったが、廃仏によって聖林寺にもたらされたのである。

 

他の美術史上の多くの問題と同様に、わかっていることもあり、依然わからないことも多い。

しかし、わかっていることも、ただ漠然とわかっているのではない。

聖林寺に移された段階で、その経緯を後代に伝えようと考えた関係者が残した記録。

光背の復元案をめぐる論争や、それにともなう像の安置場所についての推論。

建物の調査にともなって、わずかな手がかりから、その建物の変遷を奈良時代の創建当初にまでさかのぼってなされた詳細な分析。

関係人物と見られる浄三や叡尊の活動に関する研究。

このように、奈良時代から近代まで、彫刻史、宗教史、建築史、文化財科学と幅広い研究分野を結んで、脈々として研究が行われてきたその結果としての知なのである。

 

さて、まだわからない部分に関して、次なる展開はどのようなものになるであろうか。

聖林寺十一面観音像をめぐる知の旅路は、これからも続いていくことであろう。

 

 

10 さらに知りたいときは…

「十一面観音立像」(小学館『日本美術全集』3)、佐々木守俊、2013年

「奈良時代仏像荘厳『光』の復原についての再考察」(『デアルテ』27)、池田久美子、2011年

「八世紀制作の立像光背に関する一考察」(『仏教芸術』288)、小林裕子、2006年9月

「聖林寺十一面観音立像光背残欠復原の再考察について」(『デアルテ』21)、池田久美子、2005年

「大御輪寺本堂の成立と十一面観音像」(奈良国立博物館『日本の上代における仏像の荘厳』)、黒田龍二、2003年

「叡尊による大御輪寺復興と十一面観音」(『美術史研究』40))、小林裕子、2002年

「聖林寺十一面観音像とフェノロサ」(『Lotus』20)、倉本弘玄、2000年3月

「 聖林寺十一面観音像の制作と智努王」(雄山閣出版『東洋美術史論叢』)、川瀬由照、1999年

『天平』(展覧会図録)、奈良国立博物館、1998年

「大御輪寺の仏像」(東方出版『神奈備大神三輪明神』)、鈴木喜博、1997年

「旧大御輪寺本堂と安置仏像の変遷考」(『仏教芸術』232)、鈴木喜博、1997年5月

『重要文化財大神神社摂社大直禰子神社社殿修理工事報告書』、奈良県文化財保存事務所、奈良県教育委員会、1989年

「大神神社の神宮寺を探る」(『近畿文化』402)、景山春樹、1983年5月

「叡尊と大和の西大寺末寺」(吉川弘文館『中世社会の成立と展開』)、上田さち子、1976年

「聖林寺十一面観音立像光背残欠の復原」(『仏教芸術』99)、池田久美子、1974年11月

「聖林寺観音の戸籍」(『大美和』36)、久保田収、1969年1月

「大神神社における神仏関係」(『神道史研究』9-6)、久保田収、1961年11月

「聖林寺十一面観音と大御輪寺」(『史迹と美術』210)、田村吉永、1951年3月

 

 

 

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