コラム06
仏像とお経の関係、そして日本仏教について考えたこと
1 仏像とお経の関係
仏像の姿はどのようにして決まっているのか、ご存じだろうか。例えば薬師如来や観音菩薩や不動明王はどのような姿をしていて、何を持っているのか等知らなければ、それらの像を造ることはできないだろう。では、その根拠となっているのは何なのだろうか。
仏の姿は、お経(経典)やその注釈書、またはこれらを参考にして編まれた図像集に書かれているのである。このような仏の姿についての決まりを定めたものを、「儀軌(ぎき)」という。仏像を発注する願主や僧は、この儀軌をもとに仏師に指示を出す。特に密教では、細かなところまで図像が決められている。また再興像の場合、失われた旧像のイメージを再現するよう求めることがままあったようだ。興福寺南円堂の不空羂索観音像の再興にあたり、仏師康慶(運慶の父)に対して、九条兼実が細かな注文をつけていることは、その日記『玉葉』から知られるところである。当時の仏師は、今のアーティストと違って自らの創作意欲を主たる源泉として作品づくりにあたるということはありえなかった(だからといって、その限定の中で仏師の個性があらわれないと決めつけることはできない。運慶の仏像を見よ)。
いずれにせよ、仏像は経典・儀軌をもとに、それぞれ決められている図像に従って造られているのである(例外的には、何に基づいてそのような姿としたのか不明な「異形像」も存在するが)。
2 そもそもお経とは
では、経典すなわちお経とはそもそも何なのであろうか。
結論を先に言ってしまうと、お経とは、釈迦が述べた教えを記述したものである。
仏教の骨格をなす典籍は「経・律・論」の3つからなり、あわせて三蔵という。三蔵に精通したすぐれた僧侶が三蔵法師(『西遊記』で有名な玄奘三蔵もその一人)である。このうち、「経」は釈迦が述べた教えそのもの。「律」は僧や仏教教団の決まりなどの定め。これに対して「論」は釈迦以後の時代の高僧が仏教をさまざまに論じたことがらである。
ところで、ほとんどのお経は、「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉ではじまっている。これは、「(釈迦の弟子である)私はこのように聞きました。お釈迦さまはこのようにおっしゃったのです」という意味である。この書き出しは、お経がどのように成立したのかを示すキーワードである。
仏教の祖、釈迦は紀元前5世紀ごろに北部インドで活躍した実在の人物で、30代で悟りを得(悟った人の意で「ブッダ」、これに漢字を当てて「仏陀」、さらにこれを略して「仏」)、80代で亡くなるまでの長きにわたり布教につとめた。また、「十大弟子」をはじめ数多くの高弟を育てたが、中でも有名なのは日本でも釈迦像の脇侍として像がつくられることがある「阿難(あなん、アーナンダ、阿難陀とも)」と「迦葉(かしょう、カッサパ、大迦葉とも)」であろう。
阿難は釈迦と同じ一族の出身で、年下の従兄弟ともいわれる。最も長い間釈迦と歩みを共にし、釈迦の教えを多く聞いたことから「多聞第一」といわれるが、にもかかわらず悟りを得るのは遅かったという。一方の迦葉は、同じカッサパという名前の弟子が複数いたために他と区別して大迦葉(マハー・カッサパ、マハーは「摩訶不思議」の「まか」と同じで「大いなる」の意味)ともよばれる。彼は別の地域で活動していたため釈迦の臨終には立ち会えなかったが、その死後教団のリーダーとなった。
釈迦の死後まもなく、その教えを正しく継承するためにはどうしたらよいかが問題となり、会議が招集された。世に名高い「仏典結集(けつじゅう)」である。この会議では迦葉が議長役をつとめ、多聞第一の阿難らが「私はこのように聞きました」と、記憶にある釈迦の説法を語り、参集の僧がそれに間違いないと認めることで釈迦の教えを確定させていったのだという。これがお経のそもそものはじめである。
繰り返しになるが、釈迦自身は自ら著書を残さなかった。釈迦が話し弟子が聞いたことがのちにまとめられて、「如是我聞」ではじまるお経となったのである。もっとも、この仏典結集(そもそもこれ自体が伝説的な話でもあるのだが)の時にはまだ文字には書かれず、弟子たちの記憶に深く刻まれて、それがのちに文字化されたのだと考えられている。
3 お経のすべては釈迦の言葉?
釈迦と近い時代に、ギリシアではソクラテスが、中国では孔子が活躍をした。洋の東西を問わず、このころ、多くの人がどう生きるべきかを日常の中で掘り下げて考えていた、そういう時代背景があってこうした聖人や哲人が世に出たのであろうか。
釈迦、ソクラテス、孔子は皆、自らは著書を残さず、弟子がそれをまとめたという点で共通する。時代はこれよりだいぶ後になるが、イエス・キリストもまた自らは書かず、弟子が聖典をまとめている。
キリスト教の聖典である『新約聖書』の中心は4つの福音書である。それらはイエスの死後およそ百年間のうちにつくられた。4つの福音書はその骨格はもちろん共通しているが、細部には異同がみられる。非常に熱心なキリスト教徒であれば、聖書の一字一句すべてを信じるという態度になるのだろうが、一歩引いて考えるならば、イエスの死後早く成立した福音書ほどイエスの実像をよく伝え、後に成立したものではよりイエスを神格化する物語が付け加えられている可能性があるといった推測をすることは容易である。
『聖書』に比べ、仏教の聖典であるお経はとてつもなく大部である。キリストは30代で処刑されたのに対し、釈迦は80代まで生きたので、説いた教えも多かったのかもしれない。しかし、そんなことでは説明ができないほどお経の量は膨大である。すべてのお経のことを総称して「一切(いっさい)経」あるいは「大蔵(だいぞう)経」と呼ぶが、20世紀前半の日本で編纂された「大正新脩大蔵経」はなんと各巻約千ページで百巻にもなる(ただし、その中には図像集なども含まれているので、お経だけだともう少し少ないが)。
量が多いばかりでない。その教えの内容もあまりにも幅がある。そのため、すべてのお経にのっとって教えを説くということはもはや不可能で、「我々は特にこのお経の内容に立って教義をたてていますよ」として生まれたのが「宗派」というものである。たとえば「悪人正機説」の浄土真宗と、座禅をひたすら組むことで自力で悟りに入ることをめざす曹洞宗では、これが同じ仏教なのかと思うくらい異なっている。キリスト教とイスラム教の違いよりも、もっと違うのではないかと思えるほどである。
ソクラテスの言葉を書き残したのは弟子のプラトンである。ところが、初期の対話篇ではかなりソクラテスの言行をよく伝えるものの、のちに書かれた『国家』ではそこで展開されているのはプラトンの思想そのものであって、ソクラテスはもはや仮託されているに過ぎない。同じように、お経の中にも、初期のものは釈迦の言行をよく伝えるものがあるが、後のものには、たとえ「如是我聞」ではじまっていたとしても、ほとんどそれは釈迦に仮託しているだけであって、そこで展開されているのは後世の仏教思想家の思想にすぎない…。そのような考え方もできるのではないか。
私が仏像に興味を持ちはじめたのは中学生のころであるということは以前のコラムで書いたが、同じ頃、では仏教とは何なのかということにも関心を抱くようになった。そして、仏教の経典に対してここで書いたような疑問を持つに至った。すなわち、ソクラテスやイエスが本当に何を言ったのか、注意深くプラトンあるいは『聖書』を読まなくてはならないのとまったく同様に、釈迦の本来の思想に近づくためには、批判的に経典を読む必要があるのではないかと感じたのである。
4 阿含経の「発見」
かつて仏教は大きく大乗仏教と「小乗」仏教とに分けられるとされていた。「小乗」は南伝仏教で、インドからスリランカ、ビルマ、タイなどに伝わり、大乗は中国、朝鮮、日本などに伝わった(実際には大乗仏教も東南アジアへ伝わっている。たとえばボロブドゥール遺跡で有名なインドネシアに伝わった仏教は大乗仏教である)。
実は「小乗」仏教とは、大乗仏教側からの蔑称である(従って、現在では用語としてふさわしくないされ、「上座部仏教」と呼ばれている)。「あっちは小せえ」というわけだ。大乗仏教とは釈迦の死後数百年しておこった革新運動であり、おそらくその頃仏教は教条主義的になるなどの行き詰まりもあったのかもしれないが、それまでの仏教を批判して革新派は自らを大乗と呼んだのである。
中国にも「小乗」系の経典が伝わっているが、大乗仏教重視の観点からそれらは低く扱われた。日本でも古くから「小乗」はダメなものであり、日本の仏教は中国伝来の大乗仏教であるという意識が強くあったようで、例えば延暦寺は自らの戒壇(戒律を授ける場。戒律を受けることで正式な僧侶となることができる)を大乗戒壇と呼び、これを認めない東大寺のものを「小乗の戒壇」と批判したと伝えられている。相手にダメージを与えるために「小乗」というレッテルを貼ろうとしたわけなのだから、よほど「小乗」は悪い言葉であったのだろう。
しかし、それにしてもお経の量はなぜこれほど膨大であり、その内容もあまりに多岐にわたっているのか、中国の僧も頭を悩ませたに違いない。
この難問に対し、隋の僧・天台智ぎ(「ぎ」は、ヘンは上に「山」その下に「豆」、ツクリは「頁」という字)はこのように考えた。はじめ釈迦が説いた内容はあまりに難しすぎ、誰もついてくることができなかった。そこでどーんとレベルを下げて、卑近なところから教えを説いて大衆を導き、次第に高度な教えに至り、最後にはついに仏教の神髄を伝えたのであると。智ぎはこの過程を5つの時期にわけて(「五時八教説」)、最初に説いた難しい教えは「華厳経」、2番めの低いレベルの教えが「阿含(あごん)経」、最後の最も高い教えが「法華経」とお経をあてはめていった。当然のことながら、智ぎの開いた天台宗は最高の教えと彼が位置づけた法華経を柱としている。この流れもあって、日本でも法華経は大変尊ばれ、一方阿含経も日本に早くから伝わっていたが重視されることはほとんどなかった。
「小乗」の経典といわれて中国や日本では重要視されなかった阿含経に珠玉ともいうべき内容が含まれていることを「発見」したのは、意外にもヨーロッパ人である。東南アジアに進出した彼らは、キリスト教を進めるため仏教を排斥したいがために南伝の仏教を研究して、皮肉にもその素晴らしさを見いだしたのである。現在でも、イギリスやフランスでは仏教の研究は盛んに行われている。日本の仏教学者が多く僧籍にあるのに対して、ヨーロッパの仏教学者はそうしたしがらみがない分、自由な研究ができているということも言えるかもしれない。
ところで、南伝仏教の経典は何語で書かれているのかという話題に触れなくてはならない。
釈迦が説法で用いていたのは、北インドのマガダ語という民衆語だったようだ。しかしマガダ語で書かれた仏典というものは現存しない。仏教の伝来とともにその教えはインド各地方の民衆語に訳されていった(この過程で仏教はさまざまな「部派」にわかれていく。これが「部派仏教」で、その以前の段階を「根本仏教」などといわれる)が、中でもパーリ語という言語で記録された経典は南方に伝来して非常によく残っている。イギリスやフランスが研究した仏典はこのパーリ語のものである。
5 見ると拝むの間にある迷い
阿含経の「阿含」とはどういう意味であろうか。実は「阿含」という文字づらそのものには意味はない。なぜならこれはパーリ語の「アーガマ」の音に漢字を当てたものだからである。アーガマとは「伝えられたもの」というような意味だそうだ。
阿含経もなかなか大部であり、パーリ語のものは5部に、漢訳された阿含経では4部にわかれる。パーリ語の5部のうち、「相応部」と呼ばれる部分の成立が最も古く、釈迦の言行をよく伝えるものといわれる。また「小部」と呼ばれる部分は、全体の成立こそ遅いものの、その中には「スッタニパータ(経集)」「ダンマパダ(法句経)」とよばれる非常に原初的な教えが含まれる。
相応部経典の中には、風邪をひいてバラモンから滋養のある食べ物を受け回復できたエピソードや、托鉢でたまたま何も得られず帰る道で魔物の誘惑(内心の声をそのように譬えたのであろうか)を退ける話など、神格化されない生身の釈迦の姿が描かれている。教えの内容についても、心にしみわたるものが多い。ここは経典の中身を紹介する場ではないのでこれ以上立ち入りたくはないが、あえてひとつだけあげたい。
それは相応部の中のヴァッカリという弟子が登場するエピソードである。ヴァッカリは病んで、最後に釈迦にひとめ会いたいと願った。釈迦はやって来て言った。「自分に会ったところで何もならない。なぜなら、真によりどころとすべきは法であるからだ」と。
この「法」というのが何なのかは難しいが、まあ「真理」といった意味である。なぜ苦が生じるのか、そのメカニズムを正しく知ることで、迷いの世界から離れることをめざせ。これは阿難に対しても、また他の弟子たちに対しても繰り返し述べていることである。
一方、後世につくられた大乗仏教の経典にはたくさんの如来、菩薩などが登場し、釈迦の言葉としてそれらを礼拝するようにと説くが、この阿含経相応部にある釈迦の言葉を読むならば、そうした人間の力を越えた救済者を想定してそれをひたすら頼めというのは、いかにも本当の釈迦の考えから遠いと思わざるをえない。
南伝仏教は、非常にまとまった形で仏典がもたらされるという幸せな伝わり方をしたが、中国はそうではなかった。阿含経は部分的に分けられて、もっと新しい大乗仏典とともに伝えられた。パーリ語と漢訳の阿含経の比較研究によれば、パーリ語の相応部にあたるものは漢訳では雑(ぞう)阿含経とよばれるが、その内容にはかなりの乱れがあるという。
また、大乗仏典についても、同一経典の漢訳が複数回行われている(旧訳・新訳)お経というのがあるが、もとは同じ経典であるにもかかわらず訳によって内容に濃い薄いがあり、どうやら翻訳の段階における意訳や潤色もままあるようだ。
そして、天台智ぎの思想など、中国で独自に展開された新たな考えも加わって日本に仏典が伝えられ、日本ではそれが日本語に翻訳されることなく中国語のままで音読された。そのようにして導入された経典をもとにして日本の仏像はつくられているわけである。
私は日本の仏像を美しいと思う。インド、中国、朝鮮、東南アジアのどの地域の仏像とも違って、日本独自の発展を遂げた仏像の世界が好きでたまらない。しかし同時に阿含経や法句経など、原始仏典の中に述べられている釈迦の姿に強い敬愛の念を感じる。そのために、その教えが果して忠実に引き継がれているのかと疑問を感じる経典にもとづきつくられている仏像というものについて、複雑な思いを持たざるを得ないのである。
これが、我が「見ると拝むの間にある迷い」である。
6 お寺のある風景−その尊さ
先日(2008年12月)、山口市の龍蔵寺というお寺を訪れた。雨で開けていなかった収蔵庫をわざわざ開いてくださって仏像の拝観ができ、たいへんありがたかった。
拝観を終えて、お寺で発行している冊子(『滝の鼓 瀧塔山龍蔵寺』)を購入した。通りいっぺんでない、なかなか読みごたえのあるものだった。
多くのお寺で、役行者とか行基の草創を謳う。新しいより古いがよく、どうせならビッグネームが開いたのであればなおよい。まあ、わからなくもないが、何か煩悩まみれの粉飾のようにも感じられないでもない。
このお寺もそのような伝えがあるが、この冊子では、江戸時代に藩に提出した書類に現れる所伝であって本当のところは不明であると述べるにとどまり、その一方で近代以後の歩みをかなり詳しく述べている。多くの寺院の「縁起」では、草創期や全盛期の華々しい伝承を滔々と開陳し、近世や近代の姿はあまり紹介されないが、このお寺の冊子はその逆をいっていて面白い。
龍蔵寺の近代は、他の多くの寺院と同様、廃仏毀釈の嵐で幕を開けた。その後に着任した住職はお寺の立て直しにずいぶんご苦労をされたようだ。しかしその次の住職は召集されて戦地より帰らず、寺は戦後混乱期という時代背景のもと、また農地改革による打撃もあって荒廃の一途をたどった。ここに至って前住職夫人が亡夫の意志を継ぐことを決意して僧籍に入り、その方のご努力あってこの寺は今日のように復興なったそうだ。しかしその歩みは決して順調ではなく、大雪で本堂が倒壊したり、洪水の被害を受けた年もあったという。
幸いにも龍蔵寺はいくつもの堂が並ぶ名刹の姿を取り戻したが、近代の苦しい時期を乗り切ることができなかった寺院もあった。お寺の再興に失敗し、仏像を売り払うなどして住職と檀家が争議になったという例もあるやに聞く。困難に立ち向かったもののどうしても歯車がかみ合わず、進退極まってそのような事態に陥ってしまったものであろうか。
落ちついたお寺のたたずまいを見ると、昔から変わらずずっとこのようであったのだろうと無意識に思うものだが、実はそうではない。何もせずに昔のままの姿でそこにあるということは決してない。今我々がお寺を訪れてゆったり拝観できるのは、お寺の方とそれを支える檀家の方のたえまぬ努力があって、さまざまな困難を乗り越えてこられた、そのたまものにほかならないのである。
寺院というものは地域の人の支えであり、文化の守り手であり、歴史を伝える記憶そのものでもある。もしお寺がなかったら、この日本の風景はどれほど味気ないものとなるだろうか。
ここまで縷々述べてきたように、日本の仏教や仏像は、釈迦から二千五百年の歳月と数千キロの距離を隔てて独特の発展を遂げ、釈迦本来の思想とはもはや遙か遠いものになっている。しかしそれでも、厳しい歴史の波を乗り越えてきたお寺の歩みや、今日お寺が果たしている役割を考えると、その存在の意義は大きく、また尊い。今、私はそのように思っている。
(参考)
『原初経典 阿含経』、増谷文雄、筑摩書房、1970年
『仏教百話』、増谷文雄、筑摩書房、1971年
『鼓の滝 瀧塔山龍蔵寺』、高橋文雄、龍蔵寺発行、1980年
『経典はいかに伝わったか 成立と流伝の歴史』、水野弘元、佼成出版社、2004年
『ブータン仏教から見た日本仏教』、今枝由郎、日本放送出版協会、2005年
『スッタニパータ 仏教最古の世界』、並川孝儀、岩波書店、2008年