瑞林寺の地蔵菩薩像

  運慶の父・康慶前半生の作

住所

富士市松岡489

 

 

訪問日 

2006年8月27日

 

 

 

拝観までの道

交通は、富士駅から身延線で2駅、竪堀駅で下車。西へ徒歩10分くらい。 

拝観は事前申し込み必要。

 

 *ただしはこの内容は筆者が訪れた2006年のことで、2015年9月にお電話してみたところ、一般の拝観は8月15日の午前(9時〜12時ごろ)のみ行っているとのことだった。

 

 

拝観料

志納

 

 

お寺や仏像のいわれ

瑞林寺は黄檗宗の寺院で、17世紀の創建。

この地域の新田開発を助け、この寺を開いた鉄牛禅師という方が本像をご本尊として迎えたと伝える。それ以前の伝来は不詳。

 

 

拝観の環境

地蔵菩薩像は収蔵庫に安置されている。

収蔵庫内に上げていただけるので、間近で、また側面からも拝観できる。開けた扉から光が入り、とても拝観しやすい環境である。

 

 

仏像の印象など

ほぼ等身の寄木造の坐像で、玉眼、足は右足を組まず前に出す安座という座り方をしている。

両手先と裳先、右足つま先、持物等は後補である。

 

像内には銘があり、1177年8月に造立が開始されたことや、大仏師として「法橋□慶」の名などが書かれている。「□」は読み取りが難しい字であるが、同年12月に法橋(ほっきょう)という位にのぼった康慶ではないかと推定されていた。近年赤外線撮影によって、この字がやはり「康」であることが確認された。

康慶はかの有名な運慶の父であり、師である。生没年は不明だが、1152年から造仏の記録が現れる。師は奈良仏師の直系、康朝とされる。1196年に再興東大寺大仏殿の四天王像(現存せず)を定覚、快慶、運慶とともに完成させたのが最後の事績で、それからまもなく亡くなったと考えられる。 瑞林寺像は彼の前半生の作品として確実なものとして唯一現存するものである。

 

像の印象だが、とにかく全体が整っている。

片足をやや前に出しているため少しだけだが膝の間に余裕ができ、ゆったりと衣が表されている。全体に襞(ひだ)は浅めだが、左の腰など深く彫り込まれ、メリハリがある。

きりっとした顔は理知的で、理想化された人間の顔の表現である。ここに平安末期のほかの彫刻との違いがあるようだ。定朝様式の仏像が、はじめから人を遥かに超越した存在を目指して制作されているのい対し、康慶(及び、その後を襲った鎌倉彫刻の創始者たち)は、人の写実を尽くし、理想化を実現し尽くしたところに仏をあらわそうとしているように思う。いささか乱暴な言いだが、像のつくりにおいて、前者では人と仏ははじめから異次元にあり、後者では人と仏は同じ地平にあるという違いである。

定朝様式を見慣れた人々にとって、康慶の仏像は極めて新鮮に映ったであろう。いや、今見てもこの本像はとても新鮮である。

 

左足の膝から下はすっぽりと衣に隠れ、実在感が得られにくいのは康慶の彫刻のくせなのかもしれない。興福寺南円堂の法相六祖像(興福寺国宝館で展示、一部は奈良国立博物館に寄託)の衣の下の足が写実感を失っているのと共通点といえるようにも感じる。

 

 

銘文からわかったこと

地蔵菩薩像の銘文には、結縁者として宗慶など慶派の仏師の名前があるほか、すでに亡くなっていたと考えられる康朝の名前も見える。このことから、康慶はこの像の作者であると同時に願主でもあり、師の菩提を弔うとともに康慶を中心とした仏師集団の結束を固めるための造像であったとの推測が可能である。

また、銘文中にはのちに鎌倉幕府と深いかかわりをもつ人物と思われる名前も見える。やがて平氏政権が幕を下ろすとともに、それまで活躍の機会が限られていた奈良仏師は、頼朝の推挙もあって、平氏によって焼かれた奈良の復興や東国の造像に力をふるうことになる。康慶と東国の有力者とのつながりがこの瑞林寺像の造立の時点ですでにははじまっていたことが知られて、興味深い。

 

 

その他

富士市立博物館の常設展示室にレプリカが展示されている。

富士市立博物館ホームページ

 

 

さらに知りたい時は…

『運慶 鎌倉幕府と霊験伝説』(展覧会図録)、神奈川県立金沢文庫、2018年

『運慶』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2017年

『関東の仏像』、副島弘道編、大正大学出版会、2012年

『運慶ーその人と芸術』、副島弘道、吉川弘文館、2000年

「瑞林寺地蔵菩薩像の銘文と仏師康慶」(跡見学園女子大学美学美術史学科『美学・美術史学科報』28)、牧野あき沙、2000年

 

 

仏像探訪記/静岡県