かんなみ仏の里美術館の阿弥陀三尊像

  旧桑原薬師堂安置の仏像群を展示

住所

函南町桑原89-1

 

 

訪問日 

2012年11月4日 

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

かんなみ仏の里美術館    函南町ホームページ・指定文化財

 

 

 

拝観までの道

かんなみ仏の里美術館は、2012年4月にオープンした、新しい展示施設である。

場所は、JR東海道線の函南駅のほぼ真北、徒歩25分くらいのところ。

駅の東側で東海道線と新幹線の線路をくぐって北へ、町立桑村小学校を目指して坂を上っていく。途中相当きつい坂がある。小学校までが15分弱、そこからは下り坂。

途中、長源寺というお寺の横を通る。かんなみ仏の里美術館に展示されている仏像は、もとこの長源寺境内の高台のお堂に安置されていた。

 

美術館までの他の行き方としては駅前に常駐しているタクシー。1,000円程度の料金で着く。

 

休館日は火曜日、年末年始。

 

 

入館料

300円

 

 

美術館と仏像のいわれ

この地は、平安時代から江戸時代までさまざまな時代の仏像が伝来する、まさに「仏の里」である。時代の荒波の中で本来の安置寺院は失われてしまい、地域の方が長源寺境内に「桑原薬師堂」というお堂をつくって、守り伝えてきた。

これら仏像は2008年、地区の所蔵から町へと移管され、2012年よりこの美術館で公開されている。

 

展示されている仏像は20躰をゆうに越えるが、中でも白眉というべきは展示室正面奥に置かれている阿弥陀三尊像である。

中尊、阿弥陀如来像内には江戸時代の追納品があり、それによると、当時は平清寺という寺の本尊であったとある。この平清寺は古代草創という新光寺の子院であったという(ともに廃寺)。

脇侍像は、別の像の脇侍とされるなど、かつては混乱もあったが、1988年に修復されて、現在見られるような姿となった。以前は桑原薬師堂内向って左の間に安置されていた。

 

 

拝観の環境

美術館は資料室と展示室に分かれ、展示室内に慶派の仏師、阿弥陀三尊像、薬師如来坐像、十二神将像、そのほかこの地区に伝来した像が並ぶ。

薬師如来像だけは独立ケースで四方から見えるが、他は壁付きのケース内に置かれる。

部屋は暗めで、スポットライト照明を多用する。

 

 

仏像の印象

阿弥陀三尊像はヒノキの割矧(わりは)ぎ造。玉眼。

中尊の阿弥陀如来像は像高約90センチの坐像。来迎印を結ぶ。

全体に安定感のある仏像だが、細かに見てゆくと、なるほど鎌倉前期の慶派による生き生きとした造形であると感じる。

玉眼と小鼻から口許にかけての引き締まった感じによって、力強い面貌をつくっている。胸は堂々として、腰は引き締まり、膝をぐっと張って堂々と座る。足の裏は実に肉付きよい。衣の襞(ひだ)の流れは自然で豊かである。

立派な蓮華座は当初のもので、葉脈が強く浮き出てて、これも鎌倉期の特徴をよく示す。

 

両脇侍像は、像高約110センチの立像。本尊と同じヒノキの割矧ぎ造で、玉眼を入れている。

腰をひねって動きを積極的に見せる。踏み出した側の足では衣は膝下で弧を重ね、他方の足は衣が縦に流れる。変化に富んだ姿である。左脇侍(向って右)の観音像は左手を失っているのが惜しまれる。

 

 

像内銘および造像の背景について

三尊すべてに像内銘があり、それぞれに「(大)仏師実慶」と書かれる。造像年、願主等の記載はなく、そっけない銘記である。

実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師で、ほかに伊豆・修禅寺の大日如来像(1210年)をつくっている。この修禅寺の像は2代将軍で非業の最期を遂げた源頼家の七年忌につくられたと考えられているが、かんなみ仏の里美術館の阿弥陀三尊像も北条氏ゆかりの像である可能性が高い。

 

実は、この桑原の地のあたりで戦死した北条氏の一門がいる。

1180年、頼朝は平家打倒の兵を挙げるが石橋山の戦いで敗れる。この時北条時政の嫡男北条宗時(むねとき)がこの桑原から南の平井の方へと逃れたが、そこで伊豆の豪族伊東祐親(すけちか)の軍に囲まれて敗死している。

鎌倉幕府の正式記録である『吾妻鏡』によれば、1202年頃、宗時のための墳墓堂が桑原に造られていた。この記録と桑原に伝来してきた阿弥陀三尊像とを結びつけて考えれば、この像は宗時墳墓堂の本尊、すなわち北条時政によって宗時の供養のためにつくられた像ではないかとの推測ができる。

 

 

薬師如来像と十二神将像について

薬師如来像は像高約110センチの坐像、カヤの割矧(わりは)ぎ造。

頭部、上半身は堂々と大きく、脚部はやや小さい。目はつり上がり気味で、強い表情が魅力的である。

 

十二神将像は、像高各1メートルくらい。

修復によって後補の彩色がとられ、精悍な姿がよみがえって、とても魅力的な群像である。

筆者が訪れた時には最後の4躰が修復中であった。2013年3月までに終了し、12躰すべてが揃うとのことだった。

 

この十二神将像は制作時期が異なる何組かの像によって成り立っているらしい。なるほど、一見するとそれほどの違いがないようにも感じられるが、よく見ていくと歴然と異なっている。

 

その中に1躰、像内に銘文を持つものがある。亥神将像である。それによると、鎌倉時代後期の1277年の作とわかる。そこにはまた願主や仏師名も書かれるが、これらの人物についての詳細はわからない。また「卯時」の文字があり、この像は本来卯神将であったと考えられる。各像は頭上に十二支の標識をつけるが、これらは後補であり、本来とは違ってしまっているらしい。以下は、現在伝わる像名での記述である。

銘文をもつ亥神将像は、体勢にあまり変化をつけずに立つ。バランスがよく、安定した立ち姿である。そして同様の特徴を持つ卯、辰、申の各神将像は一具であったと考えれる。

これに対して丑神将として伝わる像は、顔や体に充実感がみなぎり、下半身には重量感があり、また体をひねった姿勢もみごとなできばえで、上述の4像よりも前、鎌倉時代前期ごろの作と思われる。

一方、子、寅、巳、午、酉、戌の各像は迫力と安定感においてもうひとつである感が否めず、時代が下がって、鎌倉時代末期ごろの作と思われる(午神将像の頭部はさらに下った時期の補作)。

また、未神将像のみは一木造(他は割矧ぎ造)だが、だからといって古い作ではなく、誇張が大きくなった作風から室町時代のものと考えられる。

 

 

 さらに知りたい時は…

『運慶 鎌倉幕府と霊験伝説』(展覧会図録)、神奈川県立金沢文庫、2018年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』12、中央公論美術出版、2016年

「伊豆の仏像を巡る」47〜50(『伊豆新聞』2013年4月28日、5月5日、5月12日、5月19日)、田島整

『鎌倉北条氏の興亡』(展覧会図録)、神奈川県立金沢文庫、2007年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』2、中央公論美術出版、2004年

「修禅寺大日如来像と桑原薬師堂阿弥陀三尊像」、水野敬三郎(『日本彫刻史研究』、中央公論美術出版、1996年)

「新指定の文化財」(『月刊 文化財』346)、文化庁文化財保護部、1992年7月

「桑原薬師堂 仏像群への誘い」(函南町発行のパンフレット)

 

 

仏像探訪記/静岡県