観世音寺の不空羂索観音像

奈良時代塑像の再興像

住所
太宰府市観世音寺5-6-1


訪問日 
2016年3月16日


この仏像の姿は(外部リンク)
太宰府観光マップ・フォトギャラリー(不空羂索観音像)



拝観までの道
西鉄太宰府線の西鉄五条駅下車、北西に約700メートル。または、西鉄の都府楼、五条、太宰府の各駅よりバス(太宰府市コミュニティバスまほろば号北谷回りか内山線)で「観世音寺前」下車。


拝観料
500円


お寺や仏像のいわれなど
7世紀後半、朝鮮では新羅が強国化し、唐とも結び朝鮮半島統一を成し遂げる。その過程で日本と友好関係が深かった百済は滅亡。日本は百済の復興をめざし、斉明天皇は自ら北九州まで出向くもそこで病死。さらに日本軍は663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に手痛い敗北を喫して、九州の防衛網の整備は焦眉の急の事態となり、大宰府の整備も進められた。
そうした状況が一段落した670年前後、天智天皇は亡母・斉明天皇の菩提のため、寺院の建立を志す。これが観世音寺のはじまりであるとされる。

 

天智天皇による私的な発願によるスタートであったとしても、大宰府鎮護のための寺院として、やがて「府の大寺」と称されることになる。

だが、完成までには曲折があったようで、数十年の歳月を要した。
その伽藍配置は、南に門、東に塔、西に金堂、奥に講堂という形であった。奈良の法隆寺と似るが、法隆寺とは塔と金堂の位置が逆で、かつ金堂は東向き、すなわち塔の建つ方向を正面にしていた。飛鳥の川原寺に近い配置であったとされる(ちなみに、川原寺も斉明・天智の両天皇に関係が深い寺院であった)。
金堂の本尊は銅造の阿弥陀仏で、これが斉明天皇追福のための仏であろうか。一方、講堂には観音像がまつられた。観世音寺という寺の名前からも、講堂本尊の観音像は金堂本尊に勝るとも劣らない重要な仏であったと思われる。
この観音像は不空羂索観音と考えられている(異説もある)。

奈良時代も中ごろとなった745年、僧玄昉(げんぼう)が観世音寺別当として派遣され、翌746年に観世音寺は落慶供養の日を迎えた。
玄昉は717年に入唐し、735年に経典5000巻と諸仏像をたずさえて帰国した。一時は政権の中枢にあった。もたらした経典の中には、変化観音など古密教の尊像を説いて、その強大な力で除災招福を願うといったものが多く含まれている。

 

長期間の造営がついになって、観世音寺の完成の供養を執り行った玄昉は、不空羂索観音など変化観音を日本にもたらすのに大きな功績があった人物である。その観世音寺講堂本尊が不空羂索観音であったこととの間には、なにかつながりがあるようにも感じられる。
当初の不空羂索観音像は現存しないが、鎌倉時代の再興像が宝蔵(収蔵庫)に安置されている。
奈良時代の半ばにつくられ像が失われ、それが寺にとってあまりにも大切な像であるとして、元の像を強く意識しながら再興された不空羂索観音像といえば、興福寺南円堂本尊がそうである。本像はこれと並ぶ、鎌倉期不空羂索観音像の代表作といえるだろう。

玄昉の話に戻るが、彼が観世音寺別当に任じられたのは、権力闘争の結果の左遷であった。また落慶供養の年に玄昉は死去したのだが、『続日本紀』によれば、かつて反乱を起こし敗死した藤原広嗣の怨霊によるものではないかと人々は噂したという。
寺の造営がなぜこれほど長期にわたったのか、玄昉は寺や仏像の完成にどの程度かかわったのか、そしてその死の状況についてなど、草創期の観世音寺には謎が多い。


拝観の環境
お寺に伝来する古仏のほとんどは1959年に建てられて宝蔵(収蔵庫)に移されている(一部は博物館に寄託。また観音像の1躰が講堂に安置)。
不空羂索観音像は、宝蔵の東側壁面中央、馬頭観音像に向かって右側に立っている。

よく拝観できる。


仏像の印象
像高5メートルを越える巨大な立像で、クスノキの寄木造。
観世音寺の3躰の丈六立像(十一面観音像、馬頭観音像と本像)中、最も大きい。
額に第3の目を持ち、手は8本である。頭上には11の面をつける。不空羂索観音像は一般的には多面でないので、この11の面をいただく形はたいへん特殊である。
丸顔で、顔立ちはよく整い、特に眉は美しい弧を描く。細めた目は、慈愛に満ちているように感じられる。よく引き締めた口もとが、鎌倉彫刻らしい生き生きとした雰囲気を生みだしている。
胸は丸く豊かにつくられて、胴はしっかりと絞る。腰から下は衣のひだがていねいに刻まれていて、いかにも奈良時代の古仏の再興像といった様相が見てとれる。また、腰から膝にかけて細くなっていく像側面のカーブがたいへん美しい。
なお、不空羂索観音像は多く上半身に鹿皮を着けるが、この像にはそれがない。腰布にひだが刻まれていないことから、それが鹿皮ではないかとする推測がある。

像内の銘文および他の史料の記述を総合すること、本像が造立された経緯がわかる。
それらによれば、旧像は861年の時点ですでに破損が進んでいたらしい。その後1064年に講堂は焼けるが、塑像という材質ゆえに焼失を免れ、補修されてもとのごとくに安置された。しかし、経緯は不明ながら、講堂本尊は聖観音像(如意輪観音像とも)に譲り、脇仏となったようだ。
補修を受けながらも奈良時代からずっと講堂に立ち続けてきた本像だったが、鎌倉時代前期の1221年、突然転倒し打壊してしまった。すぐさま像の復興が企図され、妙見宮のクスノキの大木を用い、ほぼ1年間をかけ、1222年に完成したものが本像である。大仏師は僧林厳と銘文にあるが、彼(および「少仏師」と書かれる僧長尊)については他に知られるところはない。

なお、本像の頭上面は本体よりも古く、平安時代後期のものとみられる。旧像が修理された際につけられたもので、この再興像に受け継がれたのだろう。


納入品について
この像には、当初像の心木が納入されていた。こけしの形状をした高さ2メートルもある塑像の仏像の上半身にあたる部分で、ヒノキ製。以前は宝蔵内、不空羂索観音像の足下に安置されていたが、現在は九州国立博物館に寄託されている。
当初の像の心木が納入されていたということは、本像は奈良時代の塑像の不空羂索観音像の再生するという意識のもとで造立がなされたものと考えられる。
また、この心木には頭上面を挿したあとがあり、当初から十一面をもつ像としてつくられたことがわかる。

そのほか、奈良時代の旧像のものとみられる塑像の断片4個(鼻、耳、髪、くちびるの一部)や、平安後期から鎌倉時代前期の写経2巻が納入されていた(経巻は盗難のため行方不明)。


新十一面観音像について
収蔵庫の南側の壁面に十一面観音像が安置されている。

像高約3メートルの立像。ヒノキの寄木造だが、面部だけがクスノキなのだそうだ。鎌倉時代の仏像なので、1069年造立の丈六の十一面観音像(馬頭観音像に向かって不空羂索観音と逆の左側に安置)と区別するため、「新十一面観音像」とよばれる。

この像については、像内に納入されていたという文書があって、造立の経緯がわかっている。それによると、12世紀前半につくられた前身の像があったが、朽損が著しくなったために、その再興像として1242年につくられたものという。
不思議な魅力をもった像である。まず、顔立ちがきびしい。顔面のみ別の材であるということから、前身像のものを用いているのであろうか。
また、胴は不自然なほど強く絞り、下半身はがっしりとつくっている。裙の折りたたみやひだは面白く表現されているものの、洗練されているという感じでなく、むしろ地方の仏像の魅力が見られるように思う。
当時の観世音寺は古代の大宰府、また東大寺といった密接だっが権勢が力を失い、北部九州における観音信仰の寺院として再出発をはかっていたと思われる。こうした時期のシンボル的存在がこの再興像であったのかもしれない。


さらに知りたい時は…
『観世音寺の歴史と文化財』、観世音寺、2015年

『観世音寺 考察編』、九州歴史資料館、2007年
「観世音寺の木造不空羂索観音立像」(『九州歴史資料館研究論集』32)、井形進、2007年
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』5、中央公論美術出版、2007年
『観世音寺』、九州歴史資料館、2006年
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』3、中央公論美術出版、2005年
「不空羂索観音の鹿皮衣」(『平安彫刻史の研究』、名古屋大学出版会、2000年)、伊東史朗
『太宰府市史 建築美術工芸資料編』、太宰府市史編集委員会、1998年
『不空羂索・准胝観音像』(『 日本の美術』382)、浅井 和春、至文堂、1998年3月

『大宰府と観世音寺』、高倉洋彰、海鳥社、1996年
『観世音寺』(『古寺巡礼西国』6)、淡交社, 1981年
「観世音寺と不空羂索観音像」(『仏教芸術』108)、錦織亮介、1976年7月


仏像探訪記/福岡県