覚園寺の薬師三尊像

  鎌倉を代表する三尊仏

住所

鎌倉市二階堂421

 

 

訪問日

2007年7月16日、 2016年8月10日

 

 

拝観までの道

覚園寺(かくおんじ)は鎌倉駅の東北、鎌倉宮より北にのびる谷戸の突き当たりにある。

駅から歩けなくもないが、鎌倉宮(大塔宮)行きの京急バスで終点まで乗り(10分くらい)、そこから歩いて10分ほどである。鎌倉宮からは一本道で、分かりやすい。

 

10時から15時まで1時間ごとに僧侶による案内があり、その時間に行くと拝観ができる(平日は12時の回休み。また、雨天時および8月1日から31日と12月20日から1月7日は休み)。

まず、自由な拝観はできないこと、50分ぐらいかかることを告げられ、それでよければ拝観して下さいとの説明を受ける。

 

愛染堂、本堂(薬師堂)、境内に移築されている古民家(旧内海家住宅)、十三仏(石仏)が安置されているやぐら(鎌倉地方によく見られる崖をくりぬいて造った墓)、地蔵堂の順に緑あふれる境内をまわりながら、分かりやすくご説明いただいた。

 

なお、雨のあとで境内がぬかるんでいる時なども拝観不可となることもあるので、そうした日には、直前に電話を入れて確認するとよい。

 

 

拝観料

500円

 

 

お寺のいわれ

覚園寺の草創は、13世紀前半、北条氏執権政治の基礎を固めた2代目北条義時が大倉薬師堂を建立したことにはじまるという。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』によると、本尊は雲慶(運慶のことと思われる)作の薬師如来像であったそうだが、2度の火災にあい、1度めには本仏は取り出されたとあるが、2回めの時に焼亡してしまったのか、今に伝わってはいない。

元寇の後に9代目執権となった北条貞時は、3度めの蒙古襲来に備えて仏の加護を願い、大倉薬師堂を発展させて覚園寺とした。13世紀末のことである。

鎌倉幕府滅亡後も、後醍醐天皇、続いて足利将軍家の帰依を受けたが、何度も火災にあい、寺の歴史は決して平坦ではなかった。

 

現覚園寺本堂(薬師堂)は、足利尊氏によって再建され、江戸前期の改修によって当初より規模は小さくなっている。堂内の仏像の多くは15世紀初頭(応永年間)に造られており、この頃が覚園寺の本格的な復興期で、あるいはこの寺が最も活気づいた時期であったかもしれない。その後、室町時代後期に寺運は傾き、後北条氏、徳川氏の庇護を受けるも、江戸末期の火災後はすっかり衰え、さらに20世紀前半の関東大震災でも大きな被害を受けた。戦後まで荒れていたというが、その後徐々に立ち直り、今日に至っている。

 

覚園寺には多くの客仏(他の寺から移された仏像)が安置されている。愛染堂の愛染明王像・鉄造不動明王像・阿しゅく如来像は、近くにあった大楽寺の仏像であり、薬師堂右奥の阿弥陀如来像は理智光寺の仏像であったという。いずれも今は絶えた寺院である。

多くの寺が歴史の中に消えていったが、その中で何度も炎上し、衰微しながらも、復興を繰り返し、廃絶した寺院からの遺産も受け継ぎつつ現代へと続いてきたこの寺の歩みの力強さを思う。

 

 

拝観の環境

薬師堂安置の仏像は、堂内でよく拝観することができる。

 

 

仏像の印象

薬師堂内は、正面に堂々たる薬師三尊像、左右には等身大の十二神将像が並ぶ。また、左奥には伽藍三神像、右奥には阿弥陀如来坐像が安置されている。

 

薬師三尊像はともにヒノキの寄木造であるが、中尊と脇侍像では作風や技法に違いがみられる。

脇侍の日光菩薩像の像内に銘があり、室町時代の仏師朝祐の手になることが分かっている。もう一方の脇侍である月光菩薩像には仏師の名前はないが、日光菩薩と瓜二つであり、同じく朝祐の作と考えられる。

まげを高く結い、足をくずして座る美しい像で、同じ鎌倉の浄光明寺・阿弥陀三尊像脇侍を範として造られた可能性がある。木の寄せ方はかなり複雑で、仏師の高い技量が現れている。台座上から垂下する衣の姿も華やかで、光背も華麗である。像高は150センチほど。

 

一方、中尊像の作風は力強さを感じさせ、特に顔は引き締まっている。慶派の流れを汲んだ仏像という印象である。腹前で合わせた手に薬壷を持つ形は珍しい。

螺髪(らほつ)は大粒で、前面は直線でなくカーブしている。肉髻は低い。

衣の襞(ひだ)は、上半身は賑やかだが下半身は脇侍像と比べておとなしい。顔は下向き加減で、仰ぎ見る人と視線があうように計算されているが、これは鎌倉大仏や元箱根の六道地蔵石仏など、鎌倉後期の仏像に多く見られる。

木の寄せ方は脇侍像のようには複雑ではない。また、像内は入念に仕上げられいるのだそうで、こうした特色も慶派の仏像を思わせる。像高は180センチほど(周丈六、すなわち一回り小さな丈六像)で、像と同じくらいの高さのある台座に乗っている。

 

以上のような作風や技法の違いにより、中尊は鎌倉後期、脇侍は室町時代に朝祐によって補作されたという説が有力である。ややこしいことに、中尊の頭部(および体幹部も?)は鎌倉後期だが、衣や膝は南北朝期に補われたという考え方もある。

覚園寺は草創以来繰り返し火災にあっており、それぞれの仏像がどの時点で焼亡し、再興されたのかまで分からない部分が多く、従って現存の仏像がどの時期までさかのぼれる像なのか、なかなか難しい。もっとも、中尊・脇侍とも室町前期で、最初から一具だったという説もある。

中尊と脇侍の成立年代が異なっているとしても、群像としてのまとまりはよい。浄光明寺阿弥陀三尊像と並んで、鎌倉に残る本格的な三尊像として、魅力的な像である。

ただし、自由拝観でないので、心ゆくまでじっくり拝観するということはできないのは残念であるが。

 

 

その他1

愛染堂安置の愛染明王像、不動明王像(大山寺の不動三尊像の造立に先立ち、試しに造った「試みの不動」という伝承をもつが、大山寺像に比べ穏やかな作風)、阿しゅく如来像(1322年、院興作。院興は同時期、横浜市の称名寺の仁王像を造像している)、地蔵堂の地蔵菩薩像(通称黒地蔵)は、それぞれ写真で見る限り優れた出来映えの仏像だが、堂の外からの拝観であるため、細かな表現まではよく分からなかった。

 

 

その他2

覚園寺では毎年8月10日に黒地蔵盆(地蔵堂本尊の黒地蔵菩薩像の縁日)が行われている。深夜の0時から正午まで。この日には本堂内諸仏をじっくりと拝むことができる(この日は拝観無料)。

 

 

さらに知りたい時は…

『覚園寺』(特別展図録)、鎌倉国宝館、2005年

「覚園寺薬師堂諸像の造立について」(『田邉三郎助彫刻史論集』)、中央公論美術出版、2001年

「覚園寺薬師三尊考」(『鎌倉彫刻史論考』)、三上進、有隣堂、1981年

『神奈川県文化財図鑑 彫刻篇』、神奈川県教育委員会、1975年

 

 

仏像探訪記/神奈川県