西勝寺の阿弥陀如来像

鎌倉時代初期の基準作

住所

大津市真野谷口町9-19

 

 

訪問日 

2019年6月2日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

大津市歴史博物館・更新情報

 

 

 

拝観までの道

西勝寺は大津市の北部、JR湖西線の堅田駅西口から西北西に徒歩約15分。

拝観は事前連絡必要。

 

 

 

拝観料

志納

 

 

お寺や仏像のいわれなど

天台真盛宗のお寺で、真盛に学んだ真学尼という方が1492年に創建したと伝える。

しかし、本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代初期の仏像であり、お寺の創建よりずっと古い。残念ながら本来はどこのお寺にまつられていたものかわからない。

 

三尊としてまつられ、中尊は阿弥陀如来像。しかし脇侍は日光、月光菩薩像と伝え、かつては薬師三尊像としてまつられていたものと思われる。脇侍の仏像(鎌倉時代後・末期頃の作)の手は、たしかに日輪、月輪を持っていた姿のように見える(持物は失われている)。しかし、別保存されている修理銘札(1803年)には「弥陀如来」とあり、このころまでは阿弥陀如来像として信仰されていたのであろう。だが、真盛にはじまる天台宗の流れを汲むこの宗派は浄土信仰が強く、あえて阿弥陀像を薬師に変更するという動機はないようにも思われる。

いつ頃、どのようにしてこの寺にまつられ、脇侍像とはどのような経緯でセットとなり、尊名がどうして変わったりしたのであろうか。

 

 

 

拝観の環境

堂内近くよりよく拝観させていただくことができた。

 

 

仏像の印象

阿弥陀如来像は像高1メートル弱の立像で、髪際からだとほぼ90センチ。3尺像である。

 

ヒノキの割矧(わりは)ぎ造であるが、面白いのは足のスネより下で割矧いでいる点である。これは納入品を入れるための工夫であったのかもしれない。

実際にこの像には納入品があり、江戸時代に追加されたものもあるが、それらを除く創建時納入品は3点である。

1つは木の長い札。表には来迎引摂を願う言葉と、1203年を指す年、願主として為清の人名が架かれ、裏には南無阿弥陀仏が繰り返し書かれる。

他の2つは陀羅尼を書いたもので、願主として三善為清らの名前も見え、貴重である。同名の人物が貴族の日記「玉葉」の1179年に任官の記録として登場し、日向権介正六位上という位であった。同一人物とすれば、造仏の1203年は「玉葉」の任官の記録の24年後のこととなる。

 

明るく穏やかで、品のよい仏像という印象である。

肉髻は自然のふくらみをもち、螺髪は小粒である。顔は丸まるとして、頬は豊か。額と顎を狭くし、その分目鼻を強調している。眼は切れ長。

ややなで肩で、左右の手の構えは自然。胴の絞りやお腹の丸みは強調せず、衣のひだのつくりも上品である。下半身のひだは省略気味にあらわしているが、この像が座れば、定朝様の仏像のおだやかな脚部の様子となるのだろうと思わせる。また、くるぶしの上の部分、袈裟の下部は衣がほんのわずかに揺れているようにあらわされて、質感はすばらしい。

このように本像は基本的には定朝様の仏像であるが、目鼻の明快さや左右の腕から下がる衣は薄手で細かく揺らぎが入る点など、定朝様から一歩出て、鎌倉時代の風が見られる。

しかし、運慶らの力強い作風からは遠いように思われ、慶派でないとすると院派や円派の作ということになろう。

 

 

その他

脇侍像は像高約85センチ。丸顔であまり腰はひねらない。中尊に比べて顔つきなど上品さという点で劣る。特に下肢の衣は規則的な弧を描くのでなく、直線的にばさばさと下がり、賑やかでさっそうとした風がある。

中尊に比べて時代が下り、鎌倉時代の後・末期ごろの作と考えれる。

3躰の立像が須弥壇上に並ぶ様子は、存在感があり、堂々と感じられる。

 

 

さらに知りたい時は…

『大津 国宝への旅』(展覧会図録)、大津市歴史博物館、2010年

『月刊文化財』501、2005年6月

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇」2、中央公論美術出版

出版、2004年  

「滋賀・西勝寺の阿弥陀如来立像について」(『仏教芸術』204)、岩田茂樹、1992年9月

 

 

仏像探訪記/滋賀県