深大寺の釈迦如来像

  古代金銅仏の優作

住所

調布市深大寺元町5-15-1

 

 

訪問日

2007年12月30日、 2018年4月29日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

調布市ホームページ・文化財

 

 

 

拝観までの道

お蕎麦で有名なあの深大寺である。つつじが丘、調布、吉祥寺、三鷹の各駅からバスが出ている。

「深大寺」バス停から土産、飲食店が並ぶ短い参道を抜けると山門、その先が本堂であるが、釈迦如来像は本堂に向かって左手の釈迦堂に安置され、日中いつでも拝観できる。

 

深大寺ホームページ

 

 

拝観料

300円

 

 

お寺や仏像のいわれ

深大寺は寺に伝わる縁起によれば、奈良時代の創建。平安時代以後天台宗の東国の中心寺院のひとつとして繁栄し、江戸時代にも幕府の保護を受けて栄えた。

その一方で繰り返し火災にもあったが、仏像、什宝、古文書などが伝えられている。

 

中でも銅造は釈迦如来像奈良時代以前の彫刻であり、関東の金銅仏の代表であるが、この仏像についての古い文献はなく、深大寺に安置された経緯など不詳である。

この像と思われる「銅仏」の記載が江戸時代後期の史料にあり、本堂安置であった。その後20世紀初めになって、元三大師堂というお堂の本尊壇下から見いだされたという。この間、幕末の火災で本堂が焼けているので、元三大師堂に移されていたということであろうが、いずれにしても江戸後期以前の伝来についてはわかっていない。

 

それほど大きくないので、中央で製作され、いつの時代にか運ばれて来たという可能性は十分ある。後述のようにこの仏像は極めて高い技術によってつくられていて、中央で制作されたと考えるのが妥当と思われる。一方、久野健氏は、この地がかつて狛江郷と呼ばれ、渡来系の人々が住んだと思われること、飛鳥・白鳳の仏像の多くが渡来系の人々やその子孫とのかかわりの中で作られたと思われることから、この仏像もこの地の渡来系の人々の手によって作られたのではないかと推測している。

(なお、市東南部の遺跡より「高大寺」と墨書された土器が発見されている。「高大寺」は高麗大寺の略称とも考えられ、この地に渡来系の寺院があったことをうかがわせる。また、「高大寺」→「神大寺」→「深大寺」と呼称が変化していったのではないかとの推測もある。)

 

本像は2017年、国宝に指定された。

 

 

拝観の環境

堂は耐火建築で、前面はガラスばりとなっている。

ガラス越しの拝観。距離はややあるが、堂内には明かりがつけられ、よく拝観できる。

 

 

仏像の印象

釈迦如来像は倚像(いぞう、腰掛けた姿の像)で、大陸ではともかく、日本では珍しい。像高は約60センチメートル(坐高で、総高では80センチ強)の金銅仏である。

親しみやすい童顔をしている。衣が薄く表現され、ぷっくりとした豊かなお腹を流れるように覆う感じなど、すばらしい。左腕や両足を覆う衣の襞(ひだ)もしつこくなく心地よい。全体に鋭さや迫力より安定感を優先させた造型ということができようか。螺髪はつけていないが、もともとつけていなかったのかどうかは分からない。

年代は白鳳時代(7世紀後半から8世紀初頭)と考えられ、上代金銅仏の完成期の代表作のひとつである。

蝋型によって一鋳、すなわち一度の銅の流し込みでつくられている。一部流し込みがうまくいかなかったところに鋳かけた跡があるというが、銅の厚みはほぼ圴一に約1センチだそうで、非常に高い技術によっている。像の表面に荒れたところが見えるが、これは後世に火事にあったため。もとは金に覆われていたが、現在はほぼ落ちて、黒々とした地をあらわしている。

 

 

さらに知りたい時は…

『月刊文化財』645、文化庁文化財部、2017年6月

『関東の仏像』、副島弘道編、大正大学出版会、2012年

 『深大寺展』(展覧会図録)、調布市郷土博物館、2009年

『住職がつづる深大寺物語』、谷玄昭、四季社、1998年

『日曜関東古寺めぐり』、久野健ほか、新潮社、1993年

『寺社の彫刻 調布市寺社所蔵文化財調査報告書』、調布市教育委員会、1993年

『深大寺学術総合調査報告書』、深大寺発行、1987年

『金銅仏』(『日本の美術』251)、鷲塚泰光、至文堂、1987年

「深大寺銅造釈迦如来像について」(『仏教芸術』133)、松山鉄夫、1980年10月

 

 

仏像探訪記/東京都