東寿院の阿弥陀如来像

1211年、法眼快慶の作

住所
瀬戸内市牛窓町千手196


訪問日 
2017年4月2日

 


この仏像の姿は(外部リンク)
瀬戸内市・文化財



拝観までの道
西大寺バスセンターまたはJR西大寺駅前より東備(両備)バス牛窓(神埼・南回り)・西大寺線に乗車し、「千手弘法寺前(せんずこうぼうじまえ)」下車、すぐ。
バス乗車時間はJR西大寺駅からだとおよそ20分。バスの本数は日中1~2時間に1本。

 

東備バス


拝観は事前連絡必要。


拝観料
200円


お寺や仏像のいわれなど
東寿院は弘法寺の子院。
弘法寺は天智天皇によって創建されたと伝えられる古刹で、元は天台宗。中世には朝廷の祈願所となるなど隆盛した。後醍醐天皇や足利氏関係の文書も伝来しているそうだ。
江戸時代には岡山の大名・池田家によって保護された。その際に真言宗に転じた。
かつては子院も多くあったが、現在は、遍明院と東寿院の2院となっている。
1967年に大火に見舞われ、本堂以下、多くの堂塔を失う甚大な被害となった。

東寿院の本尊は、快慶作の阿弥陀如来像。1211年の造像と分かっており、貴重である。


拝観の環境
明るく広いご本堂で、ゆったりと拝観をさせていただくことができた。


仏像の印象
本尊の阿弥陀如来像は像高約1メートルの立像。
ヒノキの寄木造(または割矧ぎ造か)。
足ほぞに法眼快慶とあり、また1211年をあらわす年が書かれている。
快慶は無位の時代が長く、1203年に法橋となり、1208年~1210年の間に法眼に進んでいる。兄弟弟子の運慶がその上の法印に進んだのに対し、快慶は法眼どまりであった。この東寿院の像は快慶が法眼の位に登ってまもなくの像である。

さすがに快慶の仏像と感じる上品さとバランスの良さがある。衣はやや煩瑣である。快慶は後半生になってからの方がひだを複雑に仕上げる傾向がある(本像の制作よりあとになると、さらに胸元のたるみなど複雑さが加わってゆく)。

顔つきは、やや散漫な印象がある。しかし、これには事情がある。実はこの像は伝来過程で火災にあっているようで、特に頭部に後補部分があるのだ。幸い顔面は当初のもの(玉眼は後補)だが、頭頂部や後頭部は近世初期(首ほぞに玉眼の修理の年として1604年の年が書かれている)に補作されている。上手につないでいて、一見違和感がないが、よく見ると快慶らしいきりりとした感じが減じられているように思える。

像内に納入品があり、覚勝という僧が夢想を得て快慶に造仏を依頼したと知られる。残念ながらこの僧侶がどんな人物であるのかはわからない。
本像の開眼供養の導師をつとめたのは真性という僧である。彼は源頼政とともに挙兵し敗死した以仁王の子、ということは後白河法皇の孫にあたり、天台宗で大変重きをなした僧であった。さらに納入品中には、法然の高弟など、重要な人物の名前も散見される。
この像が東寿院の本尊としてまつられることになった経緯は残念ながら不明だが、この時代の僧俗の大きなつながりの中で本像が制作されたことが知られ、興味深い。


その他
弘法寺では毎年5月5日に踟(ねり)供養が行われている。阿弥陀如来、諸菩薩の来迎のさまを演ずるねり供養だが、奈良の当麻寺、岡山・美作の誕生寺(法然上人ゆかりのお寺)とここ弘法寺のものが日本三大ねり供養といわれるそうである。1967年の火災のあと長く途絶えていたが、1997年に復活。なお阿弥陀仏は仮面でなく、半身をかぶる形式だそうだ。

もうひとつの子院、遍明院には平安時代後期作の五智如来像が伝来する。普段は非公開。5月5日のねり供養に合わせて公開されるそうだ。


さらに知りたい時は…

『快慶』(展覧会図録)、奈良国立博物館ほか、2017年

『東寿院阿弥陀如来像像内納入品資料』、青木淳、国際日本文化研究センター、2005年
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』2、 中央公論美術出版、2004年

『牛窓町史 資料編』2、牛窓町史編纂委員会、1997年

『牛窓町史 資料編』1、牛窓町史編纂委員会、1996年


仏像探訪記/岡山県