横蔵寺の大日如来像

平安末期を代表する仏像

住所
揖斐川町谷汲神原1160


訪問日 
2016年8月2日



拝観までの道
横蔵寺(よこくらじ)へは養老鉄道養老線の終点揖斐(いび)駅前から揖斐川町コミュニティバス横蔵線に乗車し、終点の「横蔵」下車。乗車時間は約40分。便数は日中1~2時間に1本。

揖斐川町コミュニティバス

バスを降りるとすぐ右手がお寺の入口となっている。山門、三重塔、本堂、観音堂があり、その先小さな橋を渡ると瑠璃殿(宝物館)と舎利堂(即身仏をまつっている)がある。
瑠璃殿で大日如来像、深沙大将像、四天王像、十二神将像、仁王像、そして板彫法華曼荼羅が拝観できる。
ただし、12月~3月および雨天時は休止。


拝観料
300円(瑠璃殿と舎利堂共通)


お寺や仏像のいわれなど
横蔵寺は平安時代初期、最澄によって開かれたという。横蔵寺は現在でも交通の不便な場所にあるが、もとはさらに山の方にあったのだそうだ。
当初の本尊は最澄自刻の薬師如来像だったといい、鎌倉時代の仏教説話集『沙石集』にも「横倉薬師」として霊験あらたかな仏さまであると述べられる。
しかし、比叡山が信長によって焼かれ、その後再興されるにあたり、横蔵寺本尊は比叡山に移されていった。
入れ替わるようにして京都からもたらされたのが、現在の本尊という。写真で見ると湛慶風のすぐれた像とわかる。しかし秘仏であり、拝観できない。
また、旧本尊の胎内仏だったと伝わる金銅仏の薬師如来像も伝わるが、こちらも秘仏。


拝観の環境
庫内は明るく、よく拝観できる。


仏像の印象
宝物館奥の壁面中央には、薬師如来の金銅仏を納める厨子と板彫法華曼荼羅(20センチ弱の四角形で材はビャクダン。中央に多宝塔と釈迦、多宝如来、仁王、そのまわりに20躰ほどの像が彫り出されている大変精緻なもの)が置かれている。

それらの向かって右側に大日如来像が安置されている。
手を胸前で組む金剛界の大日如来で、像高は約80センチ。ヒノキの割矧(わりは)ぎ造、玉眼。
像内に銘文があり、1183年に横蔵寺三重塔の本尊としてつくられたとわかる。この年は鎌倉時代に入る直前で、まさに源平の合戦が行われていた時のことである。
また、檀越として平重親という名前が書かれるが、この人物については不詳。仏師名はチクセノカウシとあり、「筑前講師」かと考えられる。
講師というのは、本来は諸国に置かれた高い地位の僧侶で、僧尼を管理し、経論を論ずるものであったが、のちには称号として仏師に授けられていた。しかし定朝の流れを汲み、かつ天皇や摂関家の造仏に功績があった仏師に対して、既に法橋、法眼といった非常に高い位が称号として与えられるようになっていたため、講師の称号を持つ仏師はそれよりは格下、すなわち中堅的な仏師と考えることができよう。名前がわからないのは残念である。

この像を見て、すぐに連想されるのは、運慶の初期の作である奈良・円成寺大日如来像である。こちらは横蔵寺の像よりも数年前につくられていて、高いまげを結い、現実的な雰囲気を漂わせている姿が似る。
だが、円成寺の像が圧倒的な存在感で迫ってくるのに対して、横蔵寺の像はおとなしい。図式的にいえば、革新的な運慶の仏像に対し、横蔵寺の像は穏やかで保守性から抜け出せていないといったところか。

しかし、その控えめさがこの像の魅力ともなっている。
顔はやや下を向く。像のすぐ前で座ると、ちょうど目があう感じである。眉は高々とはあげず、目は細く切れ長、口・顎は小さめにつくる。
天冠台の飾りは華やかに、また胸や胴はきりりと引き締まる。座る姿は自然で、脚部の衣でくるまれた足の起伏はそれほどにはあらわさない。

衣のひだは深からず浅からず、間隔もちょうどよく、心地よい。


深沙大将像について
奥の壁面、左側に安置される深沙大将像は、像高約180センチの立像。針葉樹の一木造で、平安時代の作と思われる。
極めて異色の作である。
頭髪はいくつかの束に分れて天をつく。角のようである。どんぐりまなこは飛び出し、年輪が浮き出ていることもあり、とても印象的である。鼻は短いが小鼻は大きく、口は横に長く少し開く。ほお骨は出るが、ほおはこける。耳は小さい。
腕や足には蛇を巻き付ける。
胸は単純な曲面で、その下の腹はごつごつした筋肉でできていることをいくつかの筋であらわしている。
へそのあたりに付けられた面、前に垂れる小さな布は、像にさらに不思議な雰囲気を加えている。
全体に力がこもっているように見えながら、ふわりと立っているようにも思えるのも不思議な魅力となっている。


その他の像について
宝物館の入口近く、左右に立つ仁王像は、阿形像、吽形像ともに像高約280センチ。寄木造で、材はヒノキとカツラを合わせて使っているという。忿怒の形相凄まじいが、誇張には走らず、上品さを保つ。
像内銘文より肥後の定慶が4人の小仏師を率いて造像にあたったこと、鎌倉中期の1256年につくられたことが知られる。鞍馬寺聖観音像や大報恩寺六観音像の作者として知られる肥後の定慶は、この横蔵寺仁王像の制作時には晩年、73歳であった。

十二神将像は2躰を除いて像高1メートル余り。卯と申の神将は約85センチ。当初からの一具ではないのかもしれない。
大きなポーズをとらず、控えめであるのだが、それでいてどことなくおかしみ、可愛らしさが感じられるところに魅力がある。平安末から鎌倉初期の作。寄木造、彫眼。
四天王像は像高約80センチ。寄木造、玉眼で、大仏殿様の四天王像の範疇に入る像と思われる。怒りの表現などはかなり誇張されて、鎌倉時代よりもあとの作のようだ。


さらに知りたい時は…
『国華』1438(特輯 美濃の仏像)、2015年8月
『院政期の仏像 定朝から運慶へ』、京都国立博物館、岩波書店、1992年
『横蔵寺』(『古寺巡礼東国』6)、淡交社、1982年
『仏像の旅 辺境の古仏』、久野健、芸艸堂、1975年


仏像探訪記/岐阜県