長岳寺の阿弥陀三尊像

  鎌倉彫刻の先駆

住所

天理市柳本508

 

 

訪問日

2012年1月9日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

長岳寺ホームページ・文化財

 

 

 

拝観までの道

JR桜井線の柳本駅から東へ徒歩約20分。

最寄りバス停は、天理駅と桜井駅北口を結ぶ奈良交通バスの「上長岡(かみなんか)」か「柳本」で、下車後徒歩約10分。ただし、バスの本数は少なく、JRの駅を利用する方が早い。

 

 

拝観料

300円

 

 

お寺や仏像のいわれなど

玉眼を使った仏像中、造像年がはっきりしている像の中でいちばん古い、それがこの長岳寺阿弥陀三尊像である。

鎌倉彫刻の先駆として有名な像であるが、長岳寺自体の寺史は、あまりよくわかっていない。平安前期に空海が勅命によって開いた、また大和神社の神宮寺であった等の伝えがあるが、どこまで信憑性があるのかわからない。

楼門(鐘を吊っていたあとがあるそうで、鐘楼門とも)が平安時代のものなので、古代以来の名刹であることは間違いないと思われる。中世には興福寺の末寺であった。本堂は江戸時代後期の再建。

真言宗の寺院である。

 

 

拝観の環境

阿弥陀三尊像は本堂安置。

ライトもあるがやや暗く、中尊は護摩壇の手前からの拝観、脇侍像はその前に安置されている二天像越しの拝観で、若干距離があり、さらに像がほぼ真っ黒であるために、肉眼では細部まで見るのはちょっと難しい。

我慢して見ているうちに目が慣れ、かなりわかるようになる。本堂は南面するので、晴天の昼がよい。

向って右側の脇侍(観音菩薩)像は、斜めからであるが比較的近づけるので、かなりよくわかる。

 

 

仏像の印象

中尊は、像高140センチあまり。半丈六の坐像である。ヒノキの寄木造。

写真と実物とでは、かなり印象が異なる像であるように思う。

写真では、顔はパンパンに張り、胴もとても太い像のように感じる。しかし実際にはそれほど太めではない。確かにずんぐりとしてはいるが、メリハリのきいた体つきである。姿勢もよい。

手は腹の前で組む、定印の阿弥陀像である。腕も、写真ではやや縮こまっているような感じに見えるが、実際はすらりと伸びている。ゆったりしているようでもあり、緊張をはらんで組んでいるようでもある。

 

衣は定朝様の仏像に比べて襞(ひだ)が深くなり、実際に体に布が巻かれていて、その襞をつまめるように思えるような、そんな写実性がある。両足をくるむ部分では、中に足がある様子をよく出していて、微妙な起伏をよく表わす。

衣はいわゆる偏袒右肩の変形で、右肩に少しだけ衣が乗る、如来像でよくみる着衣法であるが、珍しいのはこの右肩の衣が肘まで達している。

実は像が太めに見えていたのは、写真ではこの肘から胴に巻かれている衣と胴の境がよく分からなかったためであると気がついた。古代の仏像、例えば東京・深大寺の釈迦如来倚像などはこの右肩の衣が肘まで達している姿をしていて、例がないわけではないが珍しい。

なお、東京藝術大学大学院文化財保存学が3D計測を行い、その結果、この仏像の正面観はほぼ定朝様のままであることがわかっている。

螺髪は小粒。

 

脇侍像は細身で、引き締まった表情。まげは、鎌倉時代の仏像では相当高くしているものがあるが、それほどの高さではないものの、比較的高めに結いあげている。手はすらりと伸びて、表情がある。

像高は140センチあまりと、中尊とほぼ変わらない高さ。片足を踏み下げ、もう片方は前に外す坐法である。中尊に向って顔をわずかに傾け、外側の足を踏み下げる。手の構えは左右の像で同じである。天衣や条帛のつけ方は左右の像で変化をつけている。

 

銘文は中尊と向って左側の脇侍・勢至菩薩像の像内にあり、梵字と年と願主が書かれる(観音菩薩の像内には梵字のみ書かれる)。

これにより、本像は1151年に造像が開始されたもので、願主は僧憲幸であったことがわかる。残念ながら、仏師名は書かれない。

この僧憲幸だが、特に位が記されることなく「僧」とのみあるので、社会的な地位のある人物ではなかったようだ。

 

この像については、定朝様とは異なった生気溢れる仏像であること、玉眼を用いていること、古代の仏像の要素(中尊の左足上の衣が三角形に畳まれているのは、室生寺弥勒堂釈迦如来像などにみられるものだし、脇侍像の踏み下げは奈良・興福院の阿弥陀三尊像など奈良時代の像でいくつか遺例がある)を大胆に取り入れていることから、鎌倉彫刻の先駆として記念碑的な像であるということができる。

そしてこの像が奈良の地に伝来していること(厳密に言えば、本像がずっと長岳寺本尊であったということが文献から跡づけられているわけではないが)、また作ゆきがすぐれていることから、運慶より前の時代の奈良仏師、すなわち康助、康朝、康慶といった人物の手になる可能性が考えられる。

いずれにしても本像は、鎌倉時代の慶派の造像の源流ともいうべき非常に重要な仏像である。

 

 

本堂内の他の仏像について

本堂内には、ほかに二天像と不動明王像が安置されている。増長天像、多聞天像と伝え、平安末頃の作。近代初期に大御輪寺(廃寺)から移されて来た像であると伝えるが、これには否定的な意見もある。像高190センチ近い大ぶりな像で、材質はカツラという。

本尊に向って右側の外陣には、不動明王像が安置される。やはり平安末頃の像で、近年修復された。

 

十三重石塔初重
十三重石塔初重

境内の石仏について

長岳寺境内にはすぐれた石仏や石造物がいくつもみられる。

まず、本堂脇に笠塔婆石仏。上部には地蔵菩薩、その下に僧が2人彫りだされている珍しいもの。銘文によって、鎌倉末期の1322年に行春という僧が造立したことがわかる。彫られた2人の僧の姿は、向って左の僧が右の僧を合掌、礼拝しているので、願主の行春が師を拝んでいる様子なのではないかと推測される。

この石仏は以前石段の一部に転用されていたのを、修理の際に発見してここに立てたものだそうで、風化を免れた分、彫りがくっきりとしているのかもしれない。

 

本堂に向って右側、一段高いところの池側に十三重の石塔があり、叡尊の供養塔と伝えられる。その初重には僧形、阿弥陀、騎獅子文殊、地蔵の各尊が彫られている。特に騎獅子文殊像は、小さいながら獅子の姿がよく見え、おもしろい。

 

そこからさらに一段登ったところに、弥勒石棺仏がある。像高は2メートル近い大きな石仏で、古墳の石棺の材を用いたものという。

如来形で、下げた左手は手の甲をこちらに向けている。坐像の弥勒仏でこの印相のものがあるので、それにならったのであろうか。

 

 

その他

拝観受付のすぐ先、左側の庫裏でそうめん(冬はにゅうめん)を食べることができる。希望者は拝観受付で申し出る。700円だった。

戦中戦後の時期に巡礼者に雑炊をふるまっていたのを、地元産のそうめんに代えて出すようにしたのがそのはじまりだそうだ。

 

 

さらに知りたい時は…

『運慶』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2017年

『仏像礼讃』、藪内佐斗司、大和書房、2015年

『奈良の鎌倉時代彫刻』(『日本の美術』536)、奥健夫、ぎょうせい、2011年1月

『奈良の仏像』、紺野敏文、アスキー新書、2009年

『平安時代彫刻の文化史的研究』、佐々木英夫、国書刊行会、2004年

「長岳寺阿弥陀三尊像について」(『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要』1)、大河内智之、2000年3月

「初期慶派様式の形成と古代彫刻」下(『仏教芸術』186)、麻木脩平、1989年9月

「初期慶派様式の形成と古代彫刻」上(『仏教芸術』184)、麻木脩平、1989年5月

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代・造像銘記篇』3、中央公論美術出版、1967年

 

 

→ 仏像探訪記/奈良県