宮古薬師堂と千万院

  かつての大寺院の余光

宮古薬師堂
宮古薬師堂

住所

田原本町大字宮古字寺垣内(宮古薬師堂)

田原本町法貴寺504(千万院)

 

 

訪問日 

2013年12月8日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

田原本町・宮古の薬師如来   木造十一面観音立像(千万院)

 

 

 

宮古薬師堂への道

近鉄橿原線の田原本駅下車、西北に20分ほど歩くと、宮古(みやこ)という区域に入る。

奈良盆地はため池が多いことでも知られるが、ここ田原本町にもいくつもの池がある。宮古の地区にも四角形を斜めに2つ重ねたような形の大きな池があり、宮古池と呼ばれているらしい。その池の北側、細い道を北へ入ったところに宮古薬師堂がある。池の北側、宮古区公民館の東側に案内表示がある。

田原本町のホームページによると、住所としては「大字宮古字寺垣内」となっているが、インターネット上の住所では、「田原本町宮古268」あたりになる。

 

お堂は地区の集会場の北側部分で、外から仏像を覗けるようになっている。像までの距離がそれほど遠くないので、まずまずよく拝観できる。

堂内での拝観は原則団体のみ対応。ただ、筆者がうかがった際のご管理の方の話では、遠方からの拝観の方は少人数であってもできるだけ応じたいとお話されていた。

問い合わせ先は田原本町文化財保護課(電話は0744-32-4404)。 

 

 

宮古薬師堂について

このあたりは、かつて飛鳥と奈良、飛鳥と斑鳩を結ぶ要路であったという。この場所の字名、寺垣内の垣内(かいと)とは、「境内」を表す言葉と思われる。付近には寺東、寺西、大門などの字名も残るそうで、かつて大きな寺院があったと考えられている。常楽寺というお寺で、律宗に属し唐招提寺末であったらしい。

 

近代以後はどこの宗派にも属せず、ずっと地区でこの仏像をお守りしてきたそうで、今も地域の方が当番で掃除やお花を上げたり、また8日の薬師仏縁日の夜には集ってお経を読んだりされているそうだ。

人々の信仰厚く、大切に守り伝えられてきた仏さまである。

 

 

薬師如来像の印象

像高1メートル弱の坐像で、ヒノキと思われる針葉樹材の一木造。木芯を込め、内ぐりも施さない古様の木彫像である。平安前期時代の作。

 

どっしりした上半身、しっかりと張った膝、やや賑やかな衣の襞(ひだ)の流れなど、大変魅力的な像である。両手首は後補。

1987年の重要文化財指定にあたって修理が行われ、後補の螺髪をとり、古色で仕上げをしているが、その塗り直しの結果か、重量感よりも軽やかさや若々しさが感じられる。

 

顔つきは、眉のラインがしっかりとして、そこから鼻筋がよく通って凛々しい。額は大きくとる一方、顎は小さめである。肉髻は高い。

胸や腹の厚みを強調するために彫られた線が、乳児のぷっくりとした肉付きを連想させる。

衣の端のめくれや、左腕下の衣が幾重にも折り畳まれているさまは、華やいで感じられる。

左足を上に組む。脚部はそれほど高くない。

 

千万院
千万院

 

千万院への道

町の北東部にある千万院(千萬院)は、大和川の西岸、池神社(池坐神社)の北に接する。ここもかつては大きな寺院であったらしいが、現在は一堂のみの無住の寺院となっている。

 

最寄り駅は近鉄橿原線の石見(いわみ)駅(田原本駅から北へ一駅)で、東南東へ徒歩約35分。

田原本駅東口の前にある観光ステーション「磯城(しぎ)の里」でレンタサイクルを行っており、これを借りれば北東方向へ15分くらいで行ける。田原本町は平坦な地形であり、自転車は快適である。ほかに、駅前にはタクシーが常駐している。

 

田原本町観光レンタサイクル

 

拝観は、お堂の外から格子戸越しとなる。

ご管理の方がいらっしゃるようだが、団体のみ対応で、個人の堂内拝観はできない。明るいライトや一眼鏡をお持ちになることをお勧めする。

 

 

千万院について

地名(田原本町法貴寺)のように、ここには昔、法貴寺というお寺があった。聖徳太子創建と伝え、中世には「ほうけいじ」と読んでいたらしい。法貴寺党という比較的小さな地方武士団がこのお寺を氏寺にしていたが、やがて戦国大名・筒井氏の支配下に入ったようだ。

江戸時代のはじめには13もの院・坊が建ち並んでいたというが、次第に衰退し、近代初期の廃仏以後はその一子院であった千万院だけが存続している。

 

堂内には平安時代から室町時代にかけての数躰の仏像が安置されている。おそらくかつての法貴寺の諸堂や子院にあった仏像のうち、かろうじて残った像が集められているのであろう。

 

堂内奥の中央には薬師如来坐像、向かって左に不動明王像と十一面観音像、向かって右の厨子中に薬師如来像が安置される。

また、堂内右手前には賓頭盧(びんずる)尊者像が安置されている。

このうち、手前にある賓頭盧尊者像は拝観しやすいが、奥の像は、堂内は暗く、また拝観位置から距離もあるために、よく拝観するのは難しい。中央の薬師如来像と向かって一番左手の十一面観音像は比較的大きな像であり、何とか見える。

 

 

十一面観音像の印象

十一面観音像は、像高は180センチ余り。ヒノキの寄木造、玉眼。

右手に錫杖を持つ、長谷寺式の十一面観音像である。

頭部内に銘文があり、戦国時代の1541年に宿院仏師の源四郎らがつくった像とわかる。

すぐれた出来ばえの像で、2005年に奈良国立博物館で特別陳列「宿院仏師」展が開かれた際に出品され、図録の表紙を飾った。16世紀に活躍した宿院仏師の初期の代表作である。

顔つきはやや平面的で、つり上がり気味としながらしっかりと見開いた目が強い印象を与えている。

一方で、ひねりを加えた天衣など、細部まで神経を行き届かせた優品である。

 

作者の源四郎だが、はじめ海龍王寺の仏師僧、仙算による西大寺奥院の地蔵菩薩像などの造仏を助け、その後東大寺の仏師僧、実清の「助作」としてその制作を支えた。実清は、大和長谷寺本尊の十一面観音像の再興(1538年)の差配を行ったことでも知られるが、その頃より源四郎は独立した仏師としての活動を行うようになった。宿院仏師の誕生である。

源四郎とその一門によってつくられた仏像は数躰知られているが、この千万院の十一面観音像はその中の代表作といえる。

 

 

千万院のその他の像

堂奥中央の薬師如来坐像は、作風から室町時代、宿院仏師の作に近いように思われる仏像である。ただし、宿院仏師の作の像は基本的に銘文を伴うが、本像には銘文がないとのこと。そのため、宿院仏師の様式によってつくられた像ということになろう。

像高1メートルを越える坐像で、ヒノキの寄木造、玉眼。

大像というほどではないが、大きな頭部、立派な上背で、顔を少し斜め下に向けた姿は、お堂の中でひときわ大きく、立派に見える。衣の襞も力強く刻まれる。左足を上にして組んでいる。

 

賓頭盧尊者像は像高60センチ余りの坐像で、ヒノキの寄木造、玉眼。

像の表面の彩色は後補で、それもはがれかけており、痛々しくもあるが、それは願をかける多くの人々の手でさすられてきたからであろう。他の像が堂の奥に置かれているのに対して、この像のみ手前に安置されているのは、今も多くの人々の信仰を集めているためと思われる。

この像もややうつむき加減につくられていて、そのためか不思議な迫力が感じられる。

墨書銘より、1561年、宿院仏師源衛門とその子源四郎の作と知られる(この源四郎は、十一面観音像をつくった源四郎とは別人。おそらく源衛門が十一面観音像の作者の源四郎の子の源次と同一人で、源四郎はその子どもと思われる)。

 

不動明王立像は、像高80センチに満たない小さめの像である。いかにも平安時代後期の明王像といった、優美な姿をした像。

 

向かって右側、厨子の中に安置されている薬師如来坐像は像高約50センチ。割矧(わりは)ぎ造、玉眼。鎌倉時代の後、末期ごろの作と思われる。

 

 

その他

田原本町南部の本光明寺は平安時代の十一面観音立像が所蔵されているが、住職は常住せず、拝観は難しい。

 

 

さらに知りたい時は…

『木×仏像』(展覧会図録)、大阪市立美術館ほか、2017年

『宿院仏師』(展覧会図録)、奈良国立博物館、2005年

『月刊文化財』285、1987年6月

『田原本町の仏像』、田原本町教育委員会、1984年

 

 

→ 仏像探訪記/奈良県