西大寺愛染堂と本堂の諸像

  鎌倉復興期の仏像

京都御所から移されたという愛染堂
京都御所から移されたという愛染堂

住所

奈良市西大寺芝町1-1-5

 

 

訪問日

2013年1月27日、 2013年10月27日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

奈良ネット・西大寺(彫刻)

 

 

 

拝観までの道

西大寺は近鉄線の大和西大寺駅南口下車、徒歩3分。

駅から近い東側の門から入るとまず四王堂、聚宝館(宝物館)があり、その先に塔跡があって、その北側に本堂が、西側に愛染堂が建つ。

西大寺ではこの4つのお堂が拝観の中心だが、聚宝館は通年の開館でなく、毎年1月5日から2月4日までと、10月25日から11月15日まで開かれている(このほか、4、5月に開館する場合がある)。

 

愛染堂の本尊愛染明王像は秘仏で、開扉期間は聚宝館の開館と同じ毎年1月5日から2月4日までと、10月25日から11月15日まで。普段は厨子が閉ざされ、前に近世作の愛染明王像が置かれる。

 

 

拝観料

愛染堂は300円、本堂は400円。

聚宝館の開館期間には、4堂共通拝観券が1,000円で発行される。

 

 

叡尊と西大寺について

奈良時代末、壮大な伽藍を構えた大寺院としてつくられた西大寺だが、平安時代に入ると衰退を余儀なくされた。

平安末期から鎌倉初期にかけて、ようやくいくつかのお堂が再建や修造されたが、本格的な復興は叡尊(えいそん、えいぞん、1201−1290)の入寺を待たねばならなかった。

 

当時の寺院は政治、軍事、経済のすべてに通じて公家、武家と伍す勢力であったが、一方で戒律はおろそかにされていた。

こうした風潮を憂い、戒律の復興に努力した鎌倉時代の高僧として、笠置寺の貞慶や高山寺の明恵、そして叡尊はつとに知られる。叡尊は1235年に西大寺へ、その後一時海竜王寺に移ったが、1238年に再び西大寺に入ると、1290年に90年の生涯を閉じるまでの長きにわたってこの寺を中心に活動を続けた。

 

叡尊の高潔な人柄を伝える数々のエピソードの中から、いくつか紹介したい。

叡尊は元寇の危機にあたり、東風で兵船を本国に吹き送り、来人を損なわずに船が焼かれてしまいますようにと祈った。彼はたとえ敵であっても命を失わせることは願わず、また、そもそも「敵」とは呼ばなかった。

それより前、叡尊は般若寺の復興にも尽力し、本尊の文殊菩薩像(現存せず)の造立を多数の人の力を結集することで成し遂げたが、この時、勧進帳を用いなかったという。今もそうだが、帳面をまわして誰がいくら寄付をしたかを順に記入していけば、どんなに任意の寄付だといってもそこにはある種の強制力がはたらく。叡尊はそれを嫌い、まったく自発的な助力のみを願ったのだろう。

また、叡尊は「無縁」を任じ、「有縁」を嫌った。たとえば執権北条時頼の懇願によって鎌倉に下向した際も、「有縁」の寺であるとして称名寺を宿舎とすることを断る。彼の言う有縁とは、有力者とつながることさしていると思われる。叡尊は権力者に近づいて、その援助を受けることよりも、ひとりでも多くの民衆とつながりたいという気持ちをもつ人であった。

 

真言密教をきわめ、戒律の復興に尽力し、衰えた寺を建て直し、社会的な活動を行うなど活動に邁進してきた叡尊も、さすがに80歳の声を聞く頃には衰えをみせてきたのであろう。師を案じる弟子たちは西大寺内に叡尊の住房をつくることを提案したが、叡尊はこれを固辞。他になすべきことがあるだろうにと思われたのだろう。これも叡尊らしいエピソードだが、弟子らはそれを押して叡尊が住まう西僧房(西室)を建て、叡尊は折れてそこに移り住んだ。

 

 

愛染堂の興正菩薩像

叡尊が住んだ西僧房はすでにないが、その跡地には愛染堂(江戸後期の建物)が建てられている。

本尊は秘仏の愛染明王像で、向って左側の間に叡尊(興正菩薩)像を安置する。

このお像は、西僧房がつくられた年(1280年)に制作された叡尊の寿像(生前につくられた肖像)で、房内に安置されたという。建物は変わったが、鎌倉期と同じ位置に叡尊の像はまつられているわけである。

 

像高は約90センチ、ヒノキの寄木造、玉眼。法橋善春の作である。

顔は決して理想化することなく、己を持することに厳しかった老僧の性格をよく表現している。頭はしっかりと前方を見、首は長く、肩幅をしっかりととり、端然として座す。脚部の衣はややにぎやかにあらわす。

 

像内には造像の由来を書いた墨書とよくこれだけのものを入れられたものと思うほどの納入品が籠められていた。叡尊関係の舎利塔や史料、経典などのほか、結縁を願った人々が納めた巻物や書状、そして江戸時代の修理の折りに追加納入されたものなど。中にはたどたどしく書かれた願文、結縁者名が書かれた紙片をよってこよりにしたものなどもあった。いかにさまざまな階層の人々が叡尊を慕い、像に結縁をしたいと願ったのかがわかる。

 

拝観位置からはやや距離があり、肉眼では細部は見えにくいので、一眼鏡のようなものがあるとよい。

 

 

愛染堂の愛染明王像

愛染堂本尊の愛染明王像は、像高30センチほどの小さな像だが、たいへん存在感のある仏像である。秘仏のため、よく彩色や切り金が残る。

 

炎のように髪を逆立て、目を見開き、眉をきりきりとあげる。鼻の上部、目と目の間がこぶのように飛び出しているのも怒りの表現である。頬は豊かに肉をつけ、口は横に広く開けて、牙を見せる。

しかしその怒りは極端に顔をゆがめるようなものではない。髪や眉のラインはどちらかというとデザイン的で、頭にいただく獅子の冠も控えめでむしろ可愛らしい。

六本の腕はしかるべき位置にぴたりときまっている感じで、胴を絞り、脚部は低めに、また小さめに表わす。忿怒の姿だが、全体に感じる雰囲気は上品さ、端正さである。

 

他の叡尊関係の像と共通し、この像にも多くの納入品がある。その記述から、愛染明王像の造像は1247年、作者は仏師善円とわかる。

 

近くより拝観できるが、堂内はやや暗く、細部までは分りにくいのが残念である。

晴天の日中は南側から外の明かりが入ってくる。光は直接には届かないものの、床や壁からの反射でずいぶん見え方が違ってくるので、晴れた日がお勧めである。

 

東塔跡(手前)と本堂
東塔跡(手前)と本堂

本堂の釈迦如来像

本堂は江戸時代後期の再建ながら、堂々とした建物である。江戸期に南都でつくられたお堂の中では最大級の規模という。

本堂本尊の釈迦如来像は像高約170センチ。清凉寺式の釈迦如来立像である。

ライトはあるもののやや暗いが、比較的近い位置から拝観できる。

 

本像は、叡尊自身の著書および台座に記された銘文から造立の経緯がたいへんよくわかり、善慶など仏師9人が清凉寺におもむいて、清凉寺の霊像を直接模刻したものであることが知られる。部分的には襞の数まで一致するなど、確かに精巧な模造である。

しかしそれにもかかわらず、その雰囲気はずいぶんと違う。

ひとことでいえば、清凉寺の像はエキゾチックであり、西大寺の像は親しみやすい日本的な仏像になっている。できるだけ同じものをもう1躰つくろうとしたというよりも、特徴は継承しながらも、肝心なところは日本のそれまでの伝統を汲んだ造形としているというべきか。作者の善慶は、下手にそっくりにしようとすると、グロテスクで、どこの仏像ともわからないへんてこりんなものになってしまうのではないかと怖れたようにも思われるが、いかがであろう。

 

大きな変更点としては、元の像は彩色像であるのが、西大寺の象は素地に切り金で仕上げていること。元の像の薄さを変更し、写実的な体の厚みとしている。それにともなって、側面の衣の線も変えている。

ほかにも、縄状の髪の刻みが細かい、髪際のカーブがきつい、顔は面長が強調される、下腹部にU字形に襞を入れる、ももの茶杓形の衣文はあらわさない、足の開きが大きい、足首をあまり見せない、光背の横巾が広くなっているなどの変更点がある。

霊像として名高く、時代もつくられた国も異なる像を親しく模造するという機会を得ながらも、まったく同一のように制作をすることは避けたその意味や意識について、さまざまなことを考えさせられる。

 

 

善円/善慶とその子善春について

ここまで述べてきた仏像、すなわち興正菩薩(叡尊)像は善春の作、愛染堂本尊の愛染明王像は善円、また本堂本尊の釈迦如来像は善慶の作である。では、善春、善円、善慶の関係はどうなっているのであろうか。

実は善円と善慶は同一人物で、善春はその子どもである。

 

13世紀なかばを境に、それ以前に活躍する善円とそれ以後の善慶は、かつては親子か師弟であろうと考えられていたが、薬師寺に伝わる地蔵菩薩像(1240年、善円作)と西大寺の釈迦如来像(1249年、善慶作)の銘文の比較より、2人は同年に生まれたことがわかり、同一人物で1247年から1249年の間に改名したと考えられるようになった。

善円/善慶の他の作品としては、東大寺指図堂の釈迦如来坐像(奈良国立博物館寄託)など。ほかに、奈良・伝香寺の地蔵菩薩立像も彼の作であるとする説がある。

善春の作品としては、元興寺収蔵庫安置の聖徳太子像などがある。

 

彼らがどういった仏師の系譜に連なる仏師であるのかは、残念ながらわかっていない。奈良を中心に活動したことは確かで、彼らを「善派」と呼ぶ研究者もいる。

今は失われた般若寺本尊の周丈六文殊菩薩像も善慶と善春によってつくられた。その造立にあたって、叡尊は決して急ぐことなく、多くの民衆からの自発的な助成を集めながら、10年以上をかけた。善慶は、像をつくりあげたところで亡くなり、善春が引き継いで獅子座を完成させている。

彼らは、叡尊のめざす方向をよく理解し、制作を行った仏師であったのであろう。

 

 

本堂のその他の仏像

最後に本堂本尊のななめ後に安置されている仏像を紹介したい。

まず、向って左斜め後ろに安置されているのは、文殊菩薩と4眷属像である。獅子に乗り、4人の従者をひきつれたいわゆる渡海文殊像である。

叡尊の死後発願され、その13回忌にあたる1304年に完成したことが知られるが、作者は残念ながら不詳。

中尊の端正な引き締まった表情と群像としてのまとまりのよさが魅力的である。あえていえば、まじめで、やや面白味にかけるか。

 

本尊に向って右斜め後ろに安置される弥勒菩薩坐像は、像高280センチ近い丈六像である。像内銘から叡尊の33回忌にあたる1322年につくられたことが知られるが、この像も作者はわからない。やや大味な雰囲気の像である。

 

 

さらに知りたい時は…

『西大寺 美術史研究のあゆみ』、大橋一章ほか、里文出版、2018年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』13、中央公論美術出版、2017年

『奈良 西大寺展』(展覧会図録)、三井記念美術館ほか、2017年

『月刊文化財』633、2016年6月

『仏像からのメッセージ』(展覧会図録)、神奈川県立金沢文庫、2011年

「西大寺叡尊による清凉寺式釈迦如来の模造制作」(『美術フォーラム21』22)、松岡久美子、2010年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』6、中央公論美術出版、2008年

『奈良六大寺大観(補訂版)』14、岩波書店、2001年

「鎌倉中期の奈良仏師」(『田邉三郎助彫刻史論集』、中央公論美術出版、2001年)、田邉三郎助

「叡尊の信仰と美術」(『仏教芸術』199)、濱田隆、1991年11月

『西大寺展』(展覧会図録)、奈良国立博物館、日本経済新聞社、1990年

「叡尊をめぐる西大寺の仏像」(『重源・叡尊・忍性』、吉川弘文館、1983年)、長谷川誠

『西大寺』(『日本の古寺美術』10)、金子啓明、保育社、1987年

『西大寺と奈良の古寺』(『日本古寺美術全集』6)、集英社、1983年

『西大寺』(『古寺巡礼奈良』8)、淡交社、1979年

『西大寺』、長谷川誠、中央公論美術出版、1965年

 

 

仏像探訪記/奈良市