般若寺の諸像

  宝蔵堂は毎年秋に公開

住所

奈良市般若寺町221

 

 

訪問日 

2012年10月21日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

般若寺ホームページ

 

 

 

拝観までの道

般若寺は東大寺の北側、「奈良阪」にあるお寺である。

交通はJR奈良駅、近鉄奈良駅から青山住宅行きまたは州見台八丁目行きの奈良交通バスに乗車し、「般若寺」下車。バス停は寺の東南にあるが、拝観入口は北西側にある。バスを降りるとすぐに般若寺を示した看板があるので、それをたよりに行くとわかる。

 

般若寺の仏像は、本堂(文殊菩薩像)と宝蔵堂(石塔納入の小仏像)に安置されている。このうち宝蔵堂は、以前は春と秋に公開されていたようだが、近年は秋の時期のみ開扉される。2012年の例では、9月22日から11月11日に開扉されていた。

この時期はコスモスが咲く季節で、般若寺は「コスモス寺」として知られ、境内のお堂は花の海の中に浮かんでいるような様相を呈する。人出も多い。

 

 

拝観料

入山料500円+宝蔵堂入館料200円

 

 

お寺や仏像のいわれなど

般若寺の創建はよくわからない。境内からの古瓦の出土、また、付近の般若寺や般若道坂の名が古文献にあらわれることなどから、古代には成立していたことは確かと思われるが、中世初期には衰微してしまっていたらしい。

そのことを憂えた有徳の僧が再興を志したが、石塔の初重の石を据えたところで死去してしまったので、良恵という僧がそのあとをついで塔や仏殿を完成させたという。

良恵は律宗の高僧であったといい、西大寺の叡尊の力を得て文殊菩薩騎獅像を造立した。1255年から1267年まで、12年間かけてつくられたこの文殊像は周丈六(ひとまわり小さな丈六仏)で、作者は善慶、善春父子であったが、1490年に焼失、まもなく再興像がつくられたものの、それも1567年に兵火にかかって失われた。

それから100年たって再建された本堂が、現在の般若寺本堂である。しかしこの時には本尊は再興されず、今の本尊は経蔵(本堂の東南に西面して建つこじんまりした上品な建物)から移されてきたものと伝えられている。

 

この現本尊の文殊菩薩騎獅像は、本堂中央の厨子内に安置される。正面からのみの拝観となるが、照明もあり、近くよりよく拝観できる。

 

 

文殊菩薩像の印象

八髻(頭上に8つのまげを結っている)の文殊像である。八髻の文殊菩薩は「八字文殊」といい、作例は少なく、珍しい。『文殊師利菩薩八字三昧経』というお経を典拠とし、延命、安産、転変の除去などを祈る修法の本尊である。

 

像高は45センチ。カヤ材を用い、一木造でつくられ、内ぐりもほどこしていないという。着衣部は切り金をほどこすが、そのほかは一部に着色をしている以外素地で仕上げ、アクセサリー類も細かく彫り出していて、檀像風の彫刻である。

 

なかなか印象的な仏像である。頭部は大きく、上背はあまり高くないが、腕や腹などは太い。たくましいというよりどちらかといえばぷくぷくした童形の像のようでもある。顔つきは、眉をあげ、力強いまなざしが印象的である。口もとは引き締まり、小鼻がしっかりと左右に出て、顔を引き締めている。脚部もあまり大きくつくらず、衣の端をうねうねと波打たせる。

 

上半身と脚部をつなげる面に墨書銘があり、鎌倉時代末期に後醍醐天皇の護持僧として活躍した文観が発願して、仏師康俊(南都大仏師)とその子康成(こうじょう)によってつくられたことがわかる。

銘文中には天皇の大願が成就することを願うと読み取れる箇所があり、このころ後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒を計画していたことが知られるので、この像はその天皇の願いの実現を祈るためにつくられたものとの推測も可能である。

 

石塔と納入品について

コスモスを別とすれば、般若寺のシンボル的存在は十三重の石塔である。

 

般若寺の寺域は、もとははるかに大きかったらしいが、現在は本堂、十三重石塔、経蔵、宝物館と楼門などがそれほど広くはない境内に行儀よくおさまっている。

寺の中心にそびえる石塔は、12.5メートルもの高さがある。鎌倉時代、こうした石塔は多くつくられているが、その中でも般若寺のものは宇治川の中州に立つ15メートルの石塔についで大きな石の塔である。花崗岩を用い、中国から来日した工人集団である伊氏らによってつくられたものと考えられている。

初重には、顕教の四仏が線彫りされている。おそらく釈迦(南)、阿弥陀(西)、弥勒(北)、薬師(東)の4像である。宇治の十三重の石塔の初重は密教の4仏の種字が彫られているので、そのあたりの違いが面白い。

また、宇治の石塔と違うのは、寺院の中心としてつくられている点である。境内のまん中に建っているというばかりでなく、鎌倉時代、ほぼ何もない状態からの般若寺再建はこの石塔の造立からはじまったという事実からも、この塔が般若寺の信仰の中心としてつくられたことがわかる。

 

この塔には納入品がある。舎利塔、お経、そして仏像が、塔につくられた何ヶ所かの納入孔におさめられていたが、それが1964年の解体修理時に取り出された。

このとき取り出された仏像は、本堂裏の宝蔵堂に安置されている。

 

 

宝蔵堂安置の小仏像の印象

宝蔵堂に入ると、正面のガラスケース中に安置されている仏像がまず目に入る。それが十三重石塔の五重めより発見された如来立像である。寺では阿弥陀如来像と称している。

像高40センチほどの金銅仏で、奈良時代以前の作と思われる。

顔や手が異様に大きい。なで肩、揃えた足先、衣の襞(ひだ)の稜線には細かく刻みが入れられていることなど、とにかくたくさんの像の特徴が一度に目に飛び込んできて、たちまち心奪われる。目は、これも極端なほどの切れ長で、額や鼻の下は狭く、口もとは引き締まり、肉髻は大きくあらわす。螺髪は付けられていない。

そうしたデフォルメにもかかわらず、仏法を開いた釈尊はこのような姿で歩き、法を説いていたのではないかと思わせるような印象を与える名像である。

照明は明るく、近くよりよく拝観できる。

 

本像より目を左に転じると、二重のガラスケースに入った3躰の小仏像が安置されているのに気がつく。

十一面観音像、大日如来像、地蔵菩薩像で、これらは先の如来立像の像底部におさめられていたのだそうだ。十一面観音像は銅造の立像で、総高は約12センチあり、よく如来立像の中に納まったものだと思う。花のように開いた頭上面が美しく感じられる。

大日如来像は総高約5センチという小さな坐像で、ヒノキ製。精緻な彫りに圧倒される。

地蔵菩薩像は総高約10センチの立像。紫檀製で、切り金が美しい。これらは鎌倉時代の像と考えられている。

これら3像が置かれている場所は暗いが、懐中電灯を貸し出してくれるので、よく見ることができる。

 

 

その他1

1267年に完成した周丈六の文殊菩薩像は、はじめ独尊であったが、のちに眷属像が補われた。これらは1490年に焼失してしまうが、眷属像の一部、最勝老人の左手先および優填王の剣と伝えられるものが宝蔵堂に展示されている。

 

 

その他2(奈良博寄託仏像について)

般若寺にはこのほか、金銅仏の薬師如来立像が伝来するが、奈良国立博物館に寄託中。

 

 

その他3(夕日地蔵について)

般若寺の西側の坂道を南へ5分くらい下った左側に、室町時代の石造地蔵菩薩像が西面して立っている。2メートルに近い大きな像で、「夕日地蔵」と称する。

そこからすぐ南に「北山十八間戸」がある。鎌倉時代、忍性が福祉施設として般若寺の北東に設けたものを、江戸時代にこの場所で再興したのが今の建物だそうだ。

 

 

さらに知りたい時は…

『忍性』(展覧会図録)、奈良国立博物館、2016年

『文観房弘真と美術』、内田啓一、法蔵館、2006年

『極楽寺忍性ゆかりの遺宝』(展覧会図録)、鎌倉国宝館、2002年

『文殊菩薩像』(『日本の美術』314)、金子啓明、至文堂、1992年7月

『法華寺と佐保佐紀の寺』(『日本の古寺美術』17)、橋本聖圓ほか、保育社、1987年

『般若寺』(『古寺巡礼 奈良』5)、工藤良任、淡交社、1979年

『大和古寺大観』3、岩波書店、1977年

『奈良県指定文化財』第3集、奈良県教育委員会、1958年

 

 

仏像探訪記/奈良市