興福寺南円堂の不空羂索観音像

  10月17日に開扉

住所

奈良市登大路町48

 

 

訪問日 

2010年10月17日、 2018年10月17日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

興福寺ホームページ・文化財

 

 

 

拝観までの道

興福寺南円堂は、猿沢池の北側にある八角形の大きなお堂。

近鉄奈良駅から徒歩5分ほどで着く。

興福寺五重塔からは、まっすぐ西へ約200メートル。

普段は開扉していないが、西国三十三観音の札所なので、巡礼の方でいつも賑わいを見せている。

年1度、10月17日だけお堂は開扉される(9時〜17時、13時から1時間程度法要あり)。

 

 

拝観料

300円

 

 

お堂や仏像のいわれ

建物は江戸時代後期の再建。本尊は鎌倉期再興の不空羂索観音像。ほかに本尊と同時期につくられた法相六祖像と四天王像が安置される。

 

南円堂は平安初期、藤原冬嗣(ふゆつぐ)によって創建された。講堂の本尊・不空羂索観音像(8世紀半ばの像)が移されて本尊に迎えられたと伝える。その後繁栄を極める摂関家藤原氏はこの冬嗣の子孫であり、また不空羂索観音は藤原氏にとって縁の深い観音と考えていたことから、南円堂は興福寺の中でもひときわ重要な堂と考えられていたらしい。

本尊のほかには四天王や6躰の僧形像がまつられていたが、これらの像は11世紀の火災では救い出されたものの、12世紀の平家による南都焼討ちによって堂ともども灰燼に帰した。

 

興福寺復興は東大寺のそれよりも早く動き始めた。その再建にあたっては、朝廷全体によって再建事業をすすめるお堂、藤原氏のリーダーである氏長者(うじのちょうじゃ)の責任によって再建を行う堂、興福寺自体の負担によって再建を行う堂の3つにグループ分けされた。南円堂は講堂、南大門とともに氏長者によって再建されるべき堂に指定され、本尊・不空羂索観音像は仏師康慶(運慶の父)によって造立されることが決められた。

時の氏長者、九条兼実(かねざね)の日記『玉葉』によると、兼実は本尊像の完成間近の時期に直々に奈良に下向して検分を行い、像の容貌について「不審」を康慶に問いただしている。藤原氏にとってとりわけ重要な仏像であったこの仏像の出来映えについて、兼実が並々ならぬ関心を持っていたことを示すエピソードである。

 

 

拝観の環境

お堂は東面する。正面は開かずに、南と北の扉を開く。

中央の八角須弥壇の回りをぐるりと歩けるようになっていて、北側から入り、正面、南側、背面をまわって北側から出るようになっていた。従って正面、側面ともよく拝観できる。

私が入堂したのは夕方16時をまわっていたが、南北の扉より外の光が入って本尊が美しく浮かび上がるようであった。おそらく午前や真昼時もそれぞれの美しさがあると思われる。

 

 

仏像の印象

ヒノキの寄木造。

とにかく迫力ある像である。顔の輪郭ははちきれんばかりにふくよかで、目、鼻、口のすべてが力強い。

目は玉眼に見えるが、古代の像にならってか、瞳だけを入れている(動物の角を使っているらしい)。額に第3の目がある。手は8本。中央で合掌する手は大きく、強い印象を与える。その他の手は大きく広げることも高くかかげることもなく、正面から見て頭と膝を結んだ三角形の中にきれいにおさまる。

腹部は丸く、大きくあらわされ、脚部は左右に大きく張って、安定感を出す。

像高は3メートル半近く、それが高く立派な台座に乗っているので、本当に見上げんばかりである。

まげは筒状に高く結い上げ、冠より上に出ている。

 

上半身は裸形に近いが、よく見ると左肩に薄く衣がかかっている。これは背中にまわって右脇腹へと斜めにかかっていて、不空羂索観音像がまとっている鹿皮らしい。しかし前面にはまわらず、左肩と右脇腹で不自然に切れている。もともとは両肩から別材で天衣が下がっていたために、前面では鹿皮衣はその下になるのでこのような省略形につくった可能性がある。そうすると、もとはゆったりと天衣をかけていたことになり、現状とはだいぶ印象が変わるかもしれない。

 

盾型の透かし彫りを周囲に配した高い光背をもつ。この光背がまたすばらしい。像とのバランスが絶妙で、この光背あってこその像であると感じる。

冠も大振りで豪華だが、後補。しかし化仏(合掌する阿弥陀如来立像)は康慶作の像である。

台座も立派で、一枚一枚を軸に差し込む挿し蓮弁という技法を用いている。これは古代の手法である。こうした技法や光背の形、手の位置など、焼失した当初像の姿を踏襲したものである。しかし、古代の像の再現に終始しているわけではなく、生々しいほどの力強い容貌や、高い髻など、新時代の仏像の特色も強く現れている。

 

ところで、台座の蓮弁だが、鎌倉時代のもの、その後にとりかえられた近世、近代のものの中に、一枚だけ鎌倉時代以前の蓮弁が混ざっている。焼けたあとがあるわけではないので、当初像の蓮弁の焼け残りということは考えにくいが、何らか縁のある像の蓮弁の転用でもあろうか。他の蓮弁に比べて大きめで肉薄、抑揚が若干強い。像の背面の中央へんにあるそうだが、残念ながら肉眼で探すのは難しい。

なお、鎌倉期の蓮弁に「さうけい」の文字が書かれたものがある(台座の受座というパーツの裏にも)。康慶を支えた小仏師の名前の可能性がある。

 

 

その他

鎌倉再建ののち、このお堂は2度焼けている(鎌倉末期と江戸中期)が、これほどの大像がその度に助け出されたのは奇跡的である。江戸中期の火災のときには首を抜き、手足を分解して、猿沢池などに投げ込んで火を免れたと記録にある。

災害に際し、分解して運んだとか、池に入れて火を避けたといった伝承を持つ仏像は多くあるが、この仏像は本当にそのようにして助かったのである。

 

 

さらに知りたい時は…

『興福寺 美術史研究のあゆみ』、大橋一章・片岡直樹編、里文出版、2011年

『週刊朝日百科 国宝の美』27、朝日新聞出版、2010年2月

『興福寺のすべて』、多川俊英・金子啓明、小学館、2004年

『鎌倉時代の彫刻』(『日本の美術』459)、三宅久雄、至文堂、2004年8月

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記編1』、中央公論美術出版、2003年

『奈良六大寺大観8 興福寺2』(補訂版)、岩波書店、2000年

「不空羂索観音像の鹿皮衣」(『平安時代彫刻史の研究』)、伊東史朗、名古屋大学出版会、2000年

「興福寺南円堂不空羂索観音菩薩坐像」(『日本彫刻史論叢』所収)、西川杏太郎、中央公論美術出版、2000年

「興福寺南円堂鎌倉再興本尊の作風」(『群馬県立女子大学紀要』20)、麻木脩平、1999年

『週刊朝日百科 日本の国宝057 興福寺3』、朝日新聞社、1998年3月

「興福寺南円堂本尊不空羂索観音像修理による新知見」(『近畿文化』569)、鈴木喜博、1997年4月

「兼実と康慶ー南円堂不空羂索観音像の造立をめぐって」(『仏教芸術』138)、麻木脩平、1981年9月

『日本彫刻作家研究』、小林剛、有隣堂、1978年

 

 

仏像探訪記/奈良市