奈良国立博物館寄託の銅板法華説相図

  大和長谷寺の国宝

住所

奈良市登大路町50

 

 

訪問日

2007年12月16日、  2016年4月29日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

長谷寺ホームページ 縁起・国宝・寺宝

 

 

 

館までの道

奈良国立博物館は奈良公園内。近鉄奈良駅から徒歩約15分。

原則月曜日はお休み。

 

長谷寺(奈良県桜井市の大和長谷寺)の銅板法華説相(せっそう)図は長く奈良国立博物館に寄託されており、博物館本館(なら仏像館)で展示されていることが多い。

 

 →  奈良国立博物館ホームページ(「珠玉の仏たち<なら仏像館>」出陳一覧で確認を)

 

 

入館料

平常展は500円

 

 

長谷寺と銅板法華説相図

奈良・桜井市の長谷寺は、日本の十一面観音信仰の中心である。戦国時代には一時衰微ものの、各時代、厚い信仰を集めてきた。

初瀬の山の山腹にあり、本堂は巨石の上に築かれていて、本尊十一面観音像はその巨石上に直接立つという。古来からの自然への崇拝と仏教信仰が一体化して誕生した寺院であることがうかがえる。

この寺に伝わる銅板法華説相図は千仏多宝塔銅板とも呼ばれ、本堂の西の丘にあった石室の中に安置されていたと伝えられる。

 

 

銅板法華説相図の印象

銅板法華説相図は縦84センチ、横75センチの方形の板であり、もとは鍍金(金メッキ)されていたらしいが、現在ではすっかり落ち、真っ黒い色をしている。

奈良国立博物館の本館(なら仏像館)は、場所柄すばらしい仏像が数多く並んでいて、その中にあっては一見地味な作品である。しかし、ひとたび足を止めて見てみれば、たちまち引き込まれる。

 

銅板中央には、六角三層の仏塔がひときわ大きく描かれ、塔の下層部左右にはそれぞれ七尊像と化仏が、塔の上層部左右にはそれぞれ三尊像が表されている。塔の上層部および三尊像の周囲には千体仏が表される。塔の下には長文の銘文が書かれ、その左右には仁王像(ただし向って右の像は木造の後補)がつくられ、さらにその周囲には奏楽天人が描かれる。主要部は鋳出、千体仏は押出仏、奏楽天人と銘文は線刻というふうに、技法を組み合わせている。

 

塔の最上部には相輪が3つもつき、また各層のつくりもユニークで、我々がよく知るお寺の塔とはかなり異なった姿をしている。塔は上から見下ろす構図だが、各層の内部は横から、さらには相輪はやや見上げたようにして描かれている。何から何までまったく独特であり、極めて強い印象を与える。

 

 

何が描かれているか

銅板法華説相図は、その名の通り法華経をお釈迦様が説法しているときに起こった印象深いできごとを銅板浮き出しで表現したものである。

法華経は全部で28品(ほん、章立てのこと)からなる大部のお経である。銅板の場面は、第11章にあたる「見宝塔品」で、豊かな筋立てで知られる法華経の中でも、特に劇的な部分である。その様子は中国でもさかんに壁画等で描かれ、特に初唐末の則天武后時代に優れたものが多く造られた。

 

釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で法華経の説法をしていると、突然巨大な宝塔が地中よりわき出して、虚空にとどまる。釈迦はこれについて、過去に多宝如来という仏があり、法華経を説くものが現れるとその前に宝塔を涌出させて賛美するのであると語る。説法に参加していた菩薩が多宝如来を拝みたいと願うと、釈迦はわが分身の同意が必要であるとして十方の諸仏を集めてこの世界を仏国土となし、空中に浮かんで塔の扉を開けると、多宝如来の姿が現れる。多宝如来は釈迦のために宝塔の座を半分開ける(多宝塔に二仏がまつられている場合、この「見宝塔品」に基づいている)。

 

では、改めて銅板法華説相図を見てみよう。宝塔を上からの構図で描いているのは、今まさに地より塔が姿を現した瞬間を描いているからであり、相輪の部分が下からの構図で描かれているのは、空中の塔を人々が見上げているからと考えられる。

塔の上層には丸いものが見えるが、これは舍利(仏の骨)容器であり、多宝如来が過去仏であることを表す。中層には仏が1体、これは多宝如来である。よく見るとその枠の四隅に釘の痕が残る。おそらくここには、法華経で空中にて釈迦が開けたと説かれる扉が取り付けられていたと思われる。そして下層には、釈迦、多宝の2仏が描かれる。塔の3層は、最上層、中層、下層の順に物語が展開するさまを表現していると考えられる。そして、その周囲の仏たちは、釈迦の招請に応じて姿を現した千体仏である。

 

 

仏像の表現について

この銅板中には、前述の通り三尊像2組、七尊像2組と仁王像が鋳出されている。

左下の七尊像の中尊は蓮華座に座すが、他の3つの中尊像は腰掛ける倚像(いぞう)というスタイルである。特に上段向って右側の三尊像は中尊は倚像、両脇侍は直立して合掌する像の組み合わせで、いわゆる白鳳期(7世紀後半)にはこのスタイルの押出仏などが作られていたことが知られる。さらに、仏たちの表情は童顔で明るく、これも白鳳期の特徴とされる。

中段の七尊像のうちの五尊は中尊の下のひとつの宝珠から出て枝分かれした蓮の台座に乗るが、この形式は法隆寺蔵の押出仏などと共通し、7世紀末〜8世紀初に多く作られた形式とされる。

一方、下段の仁王像は豊かな動きをもち、奈良時代風ともいわれる。

 

 

銘文をめぐって

下段に書かれている銘文は、この時代の仏像の銘文中、屈指のものである。長文であり(300文字以上、ただし欠失部分あり)、経典や中国の漢詩文を引用し、格調高い。書体の整い方も抜群で、初唐の欧陽詢に近い美しい楷書体である。

ただし、難解な部分や解釈の分かれるところも多い。

 

主たる内容は以下の通りである。豊山(ぶざん、現在の長谷寺の地)は釈迦が説法をした霊鷲山の再現であること。この銅板は天皇のための造仏であること。中心人物は道明という僧で、戌年の7月につくったとある。弥勒信仰と天皇崇拝がともに強くあらわれ、天皇の事績は弥勒と同じであるなどと述べられている。そして天皇について、飛鳥淨御原宮(きよみはらのみや)において天下を治めた方と述べられる。

飛鳥淨御原宮を都としていたのは、天武天皇と持統天皇である。持統天皇は天武天皇の皇后で、夫の死後即位し、はじめ飛鳥淨御原宮を都としたが、694年に藤原京を造営し遷都した。そして、天武・持統の孫が、持統天皇から譲位された文武天皇である。

 

戌年が何年のことかは決着をみていない。天皇が天武なのか持統なのか、また銅板に描かれた像の様式を白鳳期とみるか奈良時代の要素を見るかなどで説が分かれる。可能性としては、天武天皇の最晩年である686年、文武天皇即位の翌年で持統上皇が生存していた698年、そして平城京遷都の年である710年がある(このほかに少数説として722年説などもある)。

 

論争の展開に大きな役割を果たしたのが、福山敏男である。彼は、銘文中の天皇をたたえる言葉に、中国の則天武后の尊号(695年に贈られたもの。皇帝=弥勒の思想にもとづく)が使われていることに着目し、このことから686年説を否定するとともに、天皇は則天武后と同じく女性である持統天皇(上皇)であるとして、698年説をとった。

最近では、片岡直樹が福山説を支持、補強する論文を発表している。

また、紺野敏文は、この銘文は国家仏教の成立、天皇神格化が強く打ち出されているが、そもそもその天皇とは天武・持統の皇統でなくてはならず、その流れが固まった文武天皇の即位を契機につくられたものであるとして698年説を主張するとともに、銘文の天皇は天武・持統の両方を指すという新たな視点を提示している。

一方、浅井和春は、飛鳥淨御原宮で天下を治めた天皇といえばやはり天武と考えるべきとして686年をとりつつも、仁王像の様式からは奈良時代風が強いとして、銘文成立と作品完成の間に時間差があった可能性を論じている。

 

 

その他

大和長谷寺の宗宝蔵(春・秋に公開)には、この銅板法華説相図のレプリカが展示されている。

長谷寺本尊と宗宝蔵の諸仏の項

 

 

さらに知りたい時は…

『大遣唐使展』(展覧会図録)、奈良国立博物館、2010年

「長谷寺銅板法華説相図の図様及び銘文に関する考察」(『美術史』168)、田中健一、2010年3月

『天平の彫刻』(『日本の美術』456)、浅井和春、至文堂、2004年

『日本彫刻史の視座』、紺野敏文、中央公論美術出版、2004年

「長谷寺銅板法華説相図考」(『佛教藝術』208)、片岡直樹、毎日新聞社、1993年

『法華経絵』(『日本の美術』269)、有賀祥隆、至文堂、1988年

『国宝大事典4 工芸・考古』、講談社、1986年

『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』、奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編、同朋舍、1976年

『世界美術全集』2、角川書店、1961年

 

 

仏像探訪記/奈良市