唐招提寺新宝蔵の伝衆宝王・獅子吼菩薩像

  春秋を中心に開扉

住所

奈良市五条町13-46

 

 

訪問日 

2009年1月16日、 2012年10月21日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

唐招提寺ホームページ・伽藍と名宝・新宝蔵

 

 

 

拝観までの道

近鉄橿原線の西ノ京駅で下車、東側に出て、線路と平行している道を北へ5〜10分行くと、突き当たりが唐招提寺である。

金堂、講堂を巡拝したのち礼堂の東へと進むと、新宝蔵という宝物館が建っている。1970年につくられた耐火式の建物で、唐招提寺に伝来した諸像の一部がここで公開されている。

拝観できる期間は、3月1日~6月30日、9月1日~11月30日、12月31日~1月3日と8月10日前後に数日間臨時開扉期間が設けられている。

 

 

拝観料

新宝蔵200円(ほかに唐招提寺入山時に600円)

 

 

お寺や仏像のいわれなど

かつて唐招提寺の北側には藤原清河邸があった。

清河は藤原不比等の孫にあたる奈良朝の貴人で、752年、遣唐大使に任じられ入唐した(副使は大伴古麻呂と吉備真備)。清河は日本への渡航を果たせずにいた鑑真と接触し、皇帝の許可が得られなくても鑑真自身の希望ならばと一度は船に乗せるが、鑑真逮捕の動きがあると聞いてやむなく下船させた。これを知った副使の大伴古麻呂は独断で鑑真を彼の船に乗せる。

遣唐使は「4つの船」といわれ、4隻で船団を組む。清河の船は第一船、古麻呂は第二船。嵐にあって船は別れ別れとなり、日本に着いたのは第一船以外の3隻だった。第一船に乗らなかったことで、結果的に鑑真は日本の地を踏むことができたのだったが、一方清河の船ははるか南へと吹き流され、艱難の末、清河は長安へと戻る。

藤原清河の帰りを待つ彼の家族は、鑑真に対して深い縁を感じたのか、創建当初の唐招提寺に僧坊や羂索堂、また羂索堂に安置する仏像を寄進した。それは同時に清河の無事の帰国を願っての喜捨であったのだろう。しかし清河は「河清」と改名して唐朝に仕え、安史の乱の混乱もあってついには帰国の方途得られず唐に客死する。

 

唐招提寺の初期の建築の中で、金堂や講堂は大修理を経ながらも今日まで伝来するが、羂索堂をはじめとする諸堂は廃絶して、仏像は主として講堂に移された。昔の唐招提寺を写した写真には、講堂内に多くの仏像が立ち並ぶ様子が記録されている。それらのほとんどが木彫の破損仏で、痛々しい状態の仏像も多い。

 

これら唐招提寺木彫群とよばれる仏像の中に、三眼で多臂の菩薩立像が2躰ある。寺ではその名を衆宝王(しゅうほうおう)菩薩、獅子吼(ししく)菩薩と伝えるが、これらは阿弥陀仏に従う来迎の二十五菩薩中に見える名前で、もとより当初の名称とは思えない(近代初期の廃仏後地蔵堂内に山積みされていた木彫仏を整理したときに、便宜上つけられた名称であるらしい)。三眼で多臂、そして上半身にたすきに掛けた布が皮のようにも見えることから、本来は不空羂索観音像として造られた像ではないかと考えられている。

鑑真在世中までさかのぼり得る古仏と見え、それが不空羂索観音像であるということは、すなわち藤原清河の家族によって施入された羂索堂の本尊である可能性が高いということを意味する。

 

 

拝観の環境

唐招提寺木彫群は現在は講堂から新宝蔵に移されている。伝衆宝王菩薩像、伝獅子吼菩薩像は堂内向って右側に安置され、近くからよく拝観できる。

 

 

仏像の印象

伝衆宝王菩薩像は像高170センチあまり。カヤの一木造。内ぐりもなく台座の一部まで一本の木から彫り上げた古様なつくりの像である。腕はすべて失われ、また前面に衝撃を受けているようで、鼻、くちびる、裙の上端の部分、下半身を2段に横切る天衣(てんね)などが破損しているのは残念である。

髪を大きくダイナミックに結い上げる。額を広くとり、縦に浅く第3の目を入れている。両眼は細目で、遠くを見ているようである。頬は豊かに張る。全体的に険しい表情の像だ。

上半身は大きく豊かにつくり、左肩から右の脇腹へと布が巻かれるが、通常条帛であるところ、幅広で襞(ひだ)を細かく刻まず、これが鹿皮であると考えられる。不空羂索観音像は鹿皮をまとった姿でつくられるという決まり事があるが、どのように装着しているかまでは経典に記述がなく、この像ではこのように胴に斜めに掛けているということらしい。それを正面で大きく結んでいる様子が、非常に印象的である。

腕は失われているが、本来6本であったようだ。

腰にベルトを巻いているが、細かい彫刻をほどこしていて、中国の石彫の仏像を思わせる。下半身はあまり誇張的な肉付けを避けてすっきりした正面観を見せている。

 

伝獅子吼菩薩像も像高170センチあまりで、やはり台座の一部までカヤの一木でつくっている。鼻が欠けているのは残念である。腕も失われているが、こちらは本来4本であったらしい。

大きく結んだ髪、細い目、正面で結んだ鹿皮、堂々とした体躯など、伝衆宝王菩薩像と一見そっくりのように見えるが、仔細に見ると細部は異なっている。

ダイナミックなまげは伝衆宝王像と共通するが、顔つきは額が若干狭くなり、その分やや面長になっているような印象を受ける。額の第三の目は浅く彫られている。口許には微笑みを浮かべているようにも見える。

体躯は、伝衆宝王像にくらべて、胸、腹、脚部のすべてがどっしりとつくられている。下肢には翻波式衣文が見える。また、条帛と鹿皮の両方を襷にかけ、鹿皮の結び目は衆宝王像に比べてやや華やかさがない。

 

 

両像をめぐる論議

唐招提寺の成立期に関する諸資料は、他の寺院と比較すると多く残っている。しかしながら解明されていないことは多い。

その中でほぼ解釈が一致しているのは、唐招提寺木彫群がその後の日本の木彫の展開に非常に大きな影響を与えたということ、そして木彫群中鑑真の在世中までさかのぼる可能性の高い像は、伝衆宝王菩薩像、伝獅子吼菩薩像とそのすぐ隣に安置されている伝薬師如来立像および講堂安置の持国天像、増長天像であろうということである。

これらの仏像は鑑真が渡日にあたって連れ来た中国の工人の作である可能性がある。鑑真は6度めのチャレンジでついに日本に着いたが、その途中の失敗に終わった渡航の際、仏像や工人を伴おうとしたことが記録にある。しかし最後の渡航で何を伴ったかは記録がなく、最終的に中国工人を連れて来たかは確証がない。だが、途中の計画から類推して工人を伴ったであろうという説が有力である。

では鑑真が工人を随伴して来たとして、先にあげた仏像のすべてが中国からの渡来工人の作であるのか、あるいは時間差、作者の違いがあるのかないのかなどは、なかなか難しい問題である。

 

伝衆宝王菩薩像と伝獅子吼菩薩像(のいずれか)が藤原清河の家族によって唐招提寺に寄進された羂索堂の本尊であっただろうというのは、ほぼ一致した見方と思われる。

ところで不空羂索観音について記述のある経典は多いが、その中でこの観音の姿は1面2臂、1面4臂、3面6臂などさまざまに述べられている。日本では東大寺三月堂の像や興福寺の南円堂の像など1面8臂の像が多いが、これは経典中に「大自在天(ヒンドゥー教のシヴァ神、1面8臂の姿であらわされることが多い)の如し」と説かれていることによる。しかしながら1面6臂を説く典拠はない。一方1面4臂像を説く経典はあるので、もともと4臂であった伝獅子吼菩薩像が不空羂索観音像として羂索堂本尊であった可能性は高いと思われる。

 

一方、12世紀なかばに成立した『七大寺巡礼私記』には、鑑真が中国で説法していたときに自ら3目6臂の不空羂索観音の姿に現じて見せたという逸話や、当時唐招提寺羂索堂には不空羂索観音像と商伽羅王像が安置されていたことが記述されているが、この商伽羅王像が6臂の不空羂索観音像なのではないか、つまり羂索堂には伝衆宝王菩薩像と伝獅子吼菩薩像がともにまつられていたのではないかとする見解もある。

 

 

さらに知りたい時は…

『名作誕生』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2018年

『木×仏像』(展覧会図録)、大阪市立美術館ほか、2017年

『唐招提寺 美術史研究のあゆみ』、大橋一章・片岡直樹編著、里文出版、2016年

「唐招提寺伝衆宝王菩薩立像・伝獅子吼菩薩立像の造立意図」(『仏教芸術』343)、 真田尊光、2015年11月

『古代一木彫像の謎』、金子啓明ほか、東京美術、2015年

『東大寺・正倉院と興福寺』(『日本美術全集』3)、小学館、2013年

『唐招提寺の仏たち』、唐招提寺発行、2011年

『大遣唐使展』(展覧会図録)、奈良国立博物館、2010年

『週刊朝日百科 国宝の美』13、朝日新聞出版、2009年11月

『鑑真』、東野治之、岩波新書、2009年

『芸術新潮 特集・日本の仏像誕生!』、新潮社、2006年11月

『仏像』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2006年

『唐招提寺展』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2005年

『奈良六大寺大観 唐招提寺2(補訂版)』、岩波書店、2001年

『奈良六大寺大観 唐招提寺1(補訂版)』、岩波書店、2000年

「日本古代における木彫像の樹種と用材観」(『Museum』555)、金子啓明ほか、1998年8月

『不空羂索・准胝観音像』(『日本の美術』383)、浅井和春、至文堂、1998年3月

『名宝日本の美術7 唐招提寺』、小学館、1980年

「唐招提寺講堂の木彫群」(『仏教芸術』64)、上原昭一、1967年5月

『天平の甍』、井上靖、新潮文庫、1954年

 

 

仏像探訪記/奈良市