天野山金剛寺金堂の三尊像

平安末期の大日如来像と鎌倉前期の二明王像

住所

河内長野市天野996

 

 

訪問日 

2018年8月12日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

天野山金剛寺・文化財

 

 

 

拝観までの道

天野山金剛寺は河内長野駅前より南海バス天野山線(光明池駅行き、サイクルセンター行き)で「天野山」下車、すぐ。

乗車時間はおよそ20分で、バスの本数は1時間に1本程度。

 

 

拝観料

拝観は南側の伽藍部分と北側の本坊に分かれ、伽藍の拝観料は200円、本坊は400円(共通券も発行)

 

 

お寺や仏像のいわれなど

真言宗寺院。

創建は奈良時代という。

平安時代末期に高野山の僧、阿観によって再興され、皇室の尊崇も厚く、また女性の参詣が認められていたことから「女人高野」と呼ばれたという。

南北朝時代には、近くの観心寺とともに南朝方の拠点となった。南朝の天皇の御所となり、また観応の擾乱時には北朝方の三上皇と親王がここに幽閉されていたことがある。食堂(じきどう)は天野殿という別名があり、これは南朝の後村上天皇がここで政治を指揮したからだそうだ。また、金堂から一段高くなったところにある観月亭は、後村上天皇が月を眺めて心を慰めたところという。

 

金剛寺のある場所は、河内国南部で、現在は奥河内とも呼ばれている。

地形は入り組み、しかし西の堺、南へ行くと高野山、東へは大和国へと通じる交通の要所である。また、山がちな地形のもとで、南朝方の武将、楠木氏が力を蓄え、これに対して北朝方は有力武将、畠山氏を守護として攻勢をかけた。

そうした中、金剛寺も戦場となったが、幸いなことに全焼となることはなく、南北朝合一後も隆盛を保った。その頃、この寺の経済を支えたのが僧坊での酒づくりであったそうで、今も近くの酒蔵で「天野酒」としてその伝統を伝えている。

 

 

拝観の環境

金堂の本尊は大日如来像と両脇侍像である。

密教本堂のつくりで、内陣、外陣が格子戸で仕切られ、拝観は外陣より格子越しとなる。晴れた日の午前中は横(東側)の障子戸から光が入り、特に中尊はたいへんに神々しい様子である。像までは若干距離があり、一眼鏡のようなものがあればなおよい。

 

 

仏像の印象

中尊の大日如来像は金剛寺が再興された平安末期に造られた像で、脇侍は鎌倉時代前期の作。

中尊の大日如来像は、ヒノキの寄木造で、像高3メートルを越える巨大な坐像である。

豪華な宝冠をつけ、顔立ちは目鼻やまゆがくっきりとして、明快な印象がある。あごがしっかりとつくられて力強く、それゆえに四角張った顔つきにも感じられる。

脇は締め気味にして、智拳印を組む手は体の中心で、いかにも厳粛に見える。

脚部はひだを煩瑣にせず、左右によく張って安定感がある。

 

豪華な光背には金剛界曼荼羅中の三十七尊がつけられており、また蓮華座の下には7体の獅子が置かれている(外陣からは蓮華座下は見えないが)。これらは東寺講堂の中尊(ただし現在のものは再興像)と同じ特色であるというが、直模でなく、東寺講堂像を写した高野山大伝法院本尊(1132年作、ただし現存せず)の影響を受けているのだという。

 

脇侍の不動明王、降三世明王像もそれぞれ2メートルを越える坐像であるが、とても大きな大日如来像に大人しく従っているような印象である。金色が鮮やかな大日像に対してこちらは彩色像だが、堂内があまり明るくないので、沈んだ色合いに感じる。

ことに不動明王像は正面を向くがややうつむき加減であるので、控えめな印象がある。

降三世明王像は大きな冠をかぶり、中尊の方へと顔を向け、腕にも動きがあり、魅力的な造形である。坐像というのがそもそも珍しいが、さらに一面で二臂の姿というのは多分彫刻としては類例がないと思われる。

園城寺に伝わる曼荼羅(円珍請来と伝える)に、大日如来を中尊として不動、降三世の二明王を脇侍とするこの組み合わせがあるのだそうだ。また、前述の高野山大伝法院の大日如来像の光背左右に不動、降三世明王像が着いていたという記録もある。

不動明王像の像内から銘文が見つかっており、造像年は1234年、作者は大仏師として法眼行快(快慶の高弟)、小仏師として肥後公、丹後公と知られる。丹後公はおそらく、三十三間堂の千体千手観音像の中に6躰銘記を残している丹後法橋春慶のことと考えられている。

 

 

楼門の二天像について

楼門は鎌倉時代の建築で、伽藍の東側、拝観の入口に建ち、左右に二天像が正面向きに安置されている。

像高は270センチもある。トチとヒノキでつくられた寄木造で、玉眼。

光背や邪鬼などは後補だが、堂内にくらべて条件の悪い場所にもかかわらず、保存の状態はよいと言えるだろう。江戸中期に北川運長という仏師によって修理され、1990年代にも修理が行われた。

 

向かって右の持国天は閉口し、左手を上げ、右手を腰に、右足に重心をかける。左側の増長天は開口し、手や足は持国天と相称となるように体勢をとる。

顔は小さめで、怒りを全面に出し、姿勢は破綻なくまとめている。これほど大きな像であるが、手慣れた感じで仕上げている。

 

像内に銘文があり、制作年、作者、願意、造像にあたった僧のすべてがわかることも貴重である。それによれば、1279年、仏師は大仏師として正快、ほか5名の仏師であったとわかる。残念ながら正快は他に事績が知られないが、名前から快慶流に連なるものではないかと想像される。金堂の両脇侍が快慶の弟子行快によってつくられているので、その関係が途絶えずにあったのかもしれない。快慶といえば、定覚とともに今は失われた東大寺中門二天像をつくっているが、その像の雰囲気を伝えているのではないかと想像すると楽しい。

 

 

その他の仏像

伽藍に入り、金堂と多宝塔の間を抜けて正面、一段高いところにある五仏堂に安置されている五智如来像は、落ち着いた穏やかな作風で、平安時代後期風であるが、玉眼が使われている。五仏堂がつくられたのは1180年と伝えられ、これを信じれば、平安末期に部分的に革新的な技法を取り入れた作品であるととらえることができるだろう。

像高は大日如来像が約60センチ、他の4仏が35センチ前後と小さく、また端整な作風で、きれいに並んで安置されているさまは、金堂の巨大な三尊像を拝したあとではかわいらしく感じられる。拝観は堂外からとなる。

 

多宝塔本尊と伝えられている大日如来像は、本坊の拝観の中にある宝物館に安置されている。

こちらも平安末期ごろの穏やかで落ち着いた雰囲気の像で、像高は約80センチ。ヒノキの割矧ぎ造。

光背に31体の化仏がつけられているが、本来は金堂本像同様に金剛界曼荼羅の37尊がつけられていたのであろう。

宝物館にはこのほかに阿観上人像、阿鑁上人像と伝えられる像などが安置されている。

 

 

さらに知りたい時は…

「天野山金剛寺金堂三尊像の保存修理と国宝指定」(『月刊文化財』650)、奥健夫、2017年11月

「新指定の文化財 美術工芸品」(『月刊文化財』645)、2017年6月

『なら仏像館名品図録2016』、奈良国立博物館、2016年

『大本山天野山金剛寺持国天・増長天像保存修理報告書』、天野山金剛寺、1994年

 

 

仏像探訪記/大阪府