天洲寺の聖徳太子像

  2月22日に開扉

 

住所

行田市荒木1618

 

 

訪問日 

2014年2月22日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

行田市教育委員会 歴史・文化財

 

 

 

拝観までの道

天洲寺は秩父鉄道の武州荒木駅の西、5分ほどのところにある。

この寺に伝わる聖徳太子像は鎌倉時代中期の作で、秘仏。毎年聖徳太子の命日である2月22日に開帳されている。

 

 

拝観料

志納

 

 

お寺や像のいわれなど

江戸時代初期にはじまる曹洞宗寺院で、この地の武将、荒木氏(北岡氏)が創建したという。

聖徳太子像はお寺の歴史よりもはるかに古いのだが、どのような経緯でこのお寺にまつられたのか、また本来どこの寺院に安置されていたのかなど、不明である。

 

 

拝観の環境

聖徳太子像は本堂の南側に東面して立つ聖徳太子堂(御霊殿)の奥に厨子に入って安置されている。

毎年2月22日の10時から16時に開扉。ご法要は11時と14時にあり、法要中は近づいての拝観はできない。

幟旗、また露天商の方も多く出ていて、たいへん盛んなご開帳であるが、私の着いた時間は10時過ぎで、まだ法要まで時間があるためか、人は少なく、並んだりすることなく拝観できた。

ただ、安置の場所は暗く、特に顔の様子はわかりにくいのは残念だった。

 

 

太子像の印象

像高は約140センチの立像で、ヒノキの寄木造、玉眼。

それほど大きな像ではないが、少し高い位置に安置されていることと、たいへん威厳あるお姿であるために、大きく感じられる。

頭はみずらを結い、袈裟を着る。袈裟は左の胸のところで紐で吊っている。腹の前で香炉を持ち、沓を履き、一般に「孝養(きょうよう)太子像」と呼ばれる姿である。全国に残る太子像の中で最も多い姿であるのだが、ことに本像は銘文によって1247年の作であることがわかっており、この姿の像の古例であり、また基準作例としても貴重である。

 

顔が小さめでプロポーションがよい。顔つきをはじめ、全体に威厳があり、力強い。頭髪のみずらは、髪を左右にわけて下げる際に輪をつくるもので、冠を着ける前の少年の髪型なのだが、少年に似合わぬ非常に厳しい顔立ちで、この時代の聖徳太子イメージがかくも厳然としたものであったかと心揺さぶられる思いがする。

衣は煩雑さがなく、すっきりとしているが、襞は深く刻む。

右腕の下から回りこんできた衣を香炉を支える左手の小指でひっぱっているのだが、後の時代の太子像とは異なって本像ではそれほど強調されず、自然な感じがする。

 

銘文は像内の4カ所に書かれる。中には文字が読めない部分や意味不明のところもあるが、ことに体部正面に書かれた銘は造像主、年、造立の目的、仏師名、造像した場所のすべてが書かれ、たいへん貴重である。他は結縁者による銘記のようだが、その中では後頭部墨書中に「御所菩提のため」という言葉がある。この御所は1219年に甥によって暗殺された3代将軍実朝のことと思われる。

 

 

銘文について

体部正面の銘文によると、相模国鎌倉郷でつくられ、願主は西阿弥陀仏(西阿)、作者は法橋慶禅、造像年は1247年とわかる。

慶禅は他に作例が残らず、経歴等不明だが、名前に慶の字がつくこと及びその力強い作風から慶派仏師と考えられる。鎌倉でつくられたとあるので、鎌倉在住の仏師だったのであろうか。また、わざわざ製作地を記したのは、他地域へ運び安置することが予定されていたとも読めるが、既述のようにこのお寺にもたらされるまでの経緯は不明である。

 

願主の西阿は、初期の鎌倉幕府を支えた重要人物である大江広元の4男、大江季光(毛利季光)のことである。彼は『吾妻鏡』に「専修念仏者なり」とあり、熱心な浄土教信者であった。大江氏は京都出身の官僚であるが、季光は父から毛利庄(現神奈川県厚木市)を受け継いで毛利氏を名乗り、鎌倉御家人として活躍した。3代将軍実朝の死後出家して西阿となったのちも承久の乱で武功をあげ、幕府重鎮として活動した。

天洲寺の太子像には、西阿が、両親、兄2人、有綱、平泰時らの極楽往生を願って造立した旨が書かれている。往生を願うのに、なぜ阿弥陀仏でなく聖徳太子像をつくったのかは今ひとつわからないが、聖徳太子は観音の化身とされ、観音は阿弥陀の先立ちとなって来迎する菩薩であることから選択されたのであろうか。

 

 

有綱と平泰時について

西阿が二親、兄とならんで往生を願った「有綱」および「平泰時」とは誰のことであろうか。

まず平泰時だが、鎌倉幕府3代執権北条泰時のことである。彼は本像造立の5年前、1242年に60歳で他界している。西阿の娘は泰時の孫の時頼の妻となっており、両家は姻戚関係であった。

一方、「有綱」という人物についてはよくわからない。源平合戦期に活躍した武将で源有綱という人がいるが、1186年に死んでいるので、本像とは60年もの開きがある。また、両者がなんらかの関係で結ばれていたという記録もない。

 

1186年に死んだ源有綱は、源仲綱の子、すなわち源頼政の孫である。1180年、源頼政は平氏に反旗をひるがえしたものの敗死するが、一族のうち伊豆国にいた源有綱だけが難を逃れた。やがて頼朝が挙兵すると有綱はそのもとに参じ、義経とともに源平合戦で武功をあげる。しかし、その後頼朝と義経が相争う事態となり、有綱は頼朝方に攻められて自害に追い込まれる。義経の陰に隠れて有名ではないが、彼もまた悲劇の武将であった。

実は、西阿の末路も悲劇的である。この聖徳太子像をつくった5ヶ月後、北条氏と三浦氏が戦う宝治合戦が起こった。西阿は北条氏とのつながりも深かったが、妻は三浦氏出身で、その縁によって三浦方となることを選択し、敗れて自死するのである。

もし、銘文の有綱が1186年に死んだ源有綱のことであるならば、西阿はこの悲劇の武将に心から同情し、また尊敬していたということになろう。そして、その後、自らも源有綱と同じく二大勢力の争いに巻き込まれて自害することになるわけで、これは不思議な因縁といえそうである。

 

 

さらに知りたい時は…

『源実朝とその時代』(展覧会図録)、鎌倉国宝館、2019年

『関東の仏像』、副島弘道編、大正大学出版会、2012年

『日本彫刻史基礎資料集成』6、中央公論美術出版、2008年

『中世の童子形』(『日本の美術』442)、津田徹英、至文堂、2003年3月

『聖徳太子展』(展覧会図録)、2001年

『仏像と人の歴史発見』、清水眞澄、里文出版、1999年

『聖徳太子信仰の美術』、東方出版、1996年

『さいたまの名宝』、埼玉県立博物館、平凡社、1991年

「慶禅作聖徳太子像」(『国華』1001)、松島健、1977年6月

 

 

仏像探訪記/埼玉県