橘禅寺の鎌倉仏

  鎌倉中期在銘像の宝庫

住所

市原市皆吉6

 

 

訪問日 

2008年10月18日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

いちはらの文化財ガイド(県指定文化財)

 

 

 

拝観までの道

橘禅寺(きつぜんじ)は、小湊鉄道線の上総牛久駅から南へ徒歩約45分(約3キロ半)。

駅の南西にある楓橋を渡り左折、牛久小学校の先に「橘禅寺2.3キロ」の道しるべがあり、その先も随所に案内があるのでそれに従って進めばよい。最後の数百メートルは舗装道路ではあるが、森の中の狭い坂道となる。本当にこの道でよいかと心配になったころ、左手にブロンズの彫刻が置かれた小さな広場が現れ、右手の坂をのぼって行くとお寺に着く。

徒歩以外の手段としては、駅前に常駐しているタクシーがある。

 

拝観にはあらかじめ市原市教育委員会(ふるさと文化課)に連絡が必要。

 

 

拝観料

志納

 

 

お寺のいわれ

橘禅寺は現在無住の寺になっているが、以前はご住職がいらして、その方は彫刻家でもあったそうで、境内のあちこちにその方の作のブロンズ彫刻が置かれている。それ以前は老朽化したお堂に仏像が置かれていたそうだが、大変優れた仏像であることを認識して修理し、収蔵庫を建てて仏像を移すなど必要な措置をこうじたのは、その住職さんだったそうである。その方が亡くなって以後は兼任の住職が遠くにいるという状態になり、お堂の鍵は檀家の役員の方が預かっている。

周辺は緑におおわれ、このあたりでは珍しい極相林の森として保護されているという。参道やお堂の前にもみじの木があり、秋には大変美しく紅葉するのだそうだ。

 

創建は寺伝によれば、奈良時代、行基というが不詳。本尊の像内銘の中に、当寺の創建は平安初期の延暦年間と書かれているが、それを裏付けるものは残されていない。古代に創建され、鎌倉時代後期の1261年に火災にあい、その後再建されたお寺である。

収蔵庫の先には石の鳥居が立ち、小さな神社が鎮座している。日本武尊の東征伝説に登場する弟橘姫をまつっているということで、もしかすると橘禅寺の「橘」はこの神社との関係で名付けられたものであるのかもしれない。

 

 

拝観の環境

間近でじっくりと拝観できた。

 

 

仏像の印象

収蔵庫を開けていただくと、正面に薬師三尊像と左右に2躰の神将像、仁王像、計7躰の仏像が整然と並んでいる。

薬師三尊像の中尊薬師如来像は、像内に銘文があり、鎌倉中期の1261年に火災でそれまでの本尊が焼け、翌1262年に新たな本尊として造られた像であることが書かれている。仏師は大仏師常陸公蓮上と小仏師信濃公新蓮とあり、由緒、制作年、作者がはっきりしている仏像として、大変重要な作例である。

 

中尊は像高約80センチの坐像、脇侍像は1メートル強の立像である。3躰ともカヤの割矧(わりは)ぎ造で、素地をあらわしているが、はじめから彩色をほどこさない白木の仏像であったのかもしれない。

中尊はいかめしい顔つきである。慈愛に満ちた阿弥陀像や観音像を見慣れていると、この像の顔つきには違和感を覚えるが、古代より薬師像には病魔や怨霊を退散させる呪術的な力を期待して林厳な姿で造られるものが見られるので、その系譜を引く像であるのかもしれない。まなざしは強く、口もとや頬は引き締まっている。螺髪は大粒で、肉髻(頭頂部のもりあがり)は低い。上半身は高さがあり、やややせ形で肩はなで肩である。

一方、顔の強さに対して衣文の刻みはそっけなく、アンバランスであるようにも感じる。

 

しかし間近でしばらく拝観していると、その顔つきには何ともいえない魅力があるのがわかってくる。また、衣文の襞(ひだ)は上半身では自然に流れ、下半身ではしっかりと足をくるんで緊張感をはらんでいる。古様さと鎌倉彫刻の張りのある力強さ、地方的造像の素朴さがミックスされて、魅力ある像である。

 

両脇侍はほぼ直立し、端正な顔だちと姿勢の像である。まげは高めで、立派な冠をつけている。通常菩薩像は上半身裸で条帛や天衣(てんね)をまとう姿で表されることが多いのだが、この脇侍像は鎌倉・浄光明寺阿弥陀三尊像の脇侍像や横浜・金沢の称名寺本尊弥勒菩薩像と同様、如来と同じように袈裟をつけている。宋の仏教美術の影響であろう。この像のなで肩、頭の前傾も宋風と思われる。日本の仏像彫刻の宋風流行がいつ頃から本格的になっていくのかを考える上で、重要な仏像である。

 

仁王像は像高約2メートル半の堂々たる像である。阿形像は口を少し開き、腰を大きくひねるが、吽形像の方はやや動きが少ない。どちらの像も腕やふくらはぎが太く力みなぎるが、安定感もある優れた造形で、鎌倉彫刻らしい像である。

こちらも像内に銘文があり、像の作者は「常陸坊」と「尾張坊覚念」とわかる。このうち「常陸坊」は本尊銘文中の「常陸公蓮上」と同一人と考えられる。また、阿形像内には本尊が造られた翌年である1263年の年、吽形像内には「文永(1264ー1275年)」の年号が書かれていて、本尊に続いて造られた像であることがわかる。

 

 

その他

神将像2躰は、ともに一木造で、1メートル強。内ぐりのない古様な造りで、腰のあたりなど大変太く、本尊や仁王像と異なって平安時代にさかのぼる像と考えられる。鎌倉中期の大火以前から伝わる像であろう。手を上にあげ、忿怒の表情であるが、どことなくダンスをしているようでユーモラスである。左右の像のバランスもとれていて、はじめから一具の二天像と思われるが、材質は違う(カヤとクスノキ)というのがやや気になる。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』9、中央公論美術出版、2013年

『仁王』、一坂太郎、中公新書、2009年

『日曜関東古寺めぐり』、久野健ほか、新潮社、1993年

『指定有形文化財修理報告書ー仏像彫刻編』、市原市教育委員会、1991年

「称名寺本尊・弥勒菩薩像をめぐる諸問題」(『三浦古文化』28)、田辺三郎助、1980年11月

『市原市史 資料編(中世編)』、市原市教育委員会、1980年

 

 

仏像探訪記/千葉県