多聞院の毘沙門天像・両脇侍像

  毎年夏の1日に開帳

善膩師童子像
善膩師童子像

住所

印西市松崎396

 

 

訪問日 

2008年8月2日 

 

 

 

拝観までの道

多聞院は印西(いんざい)市南部にある。

交通は、東葉高速鉄道線の八千代緑が丘駅などから千葉レインボーバス神崎線(津田沼駅と木下駅を結んでいる路線)で「船尾小学校前」で下車し、東南へ徒歩約20分。バスの本数は日中1時間に2本程度。

または、北総線の印西牧ノ原駅か千葉ニュータウン中央駅から印西市ふれあいバス南ルートで「松崎坂下」で下車。ただしバスの便数は多くないので注意。

 

千葉レインボーバス   印西市ホームページ・ふれあいバス

 

多聞院の本尊は毘沙門天を中尊とする三尊像で、秘仏。

以前は毎年8月2日にご開帳を行っていて、筆者が訪れた2008年には、8月2日14時から護摩焚き、その前の13時30分ごろからご開帳だった。現在は8月2日に近い土曜日か日曜日に行われることになったようで、2010年は7月31日だったとのこと(ほかに1月2日にもご開帳されるらしい)。

問い合わせは、印西市の生涯学習課へ。

 

 

拝観料

志納

 

 

お寺や仏像のいわれ

多聞院はお堂がひとつだけの小さなお寺である。

中尊の毘沙門天は四天王のリーダー格、多聞天の別名で、片手に宝塔をかかげている姿でつくられることが多いが、この像は左手で戟(げき)という長い武器を持ち、右手は腰に当てている。脇侍は吉祥天と善膩師(ぜんにし)童子。吉祥天は毘沙門天の妻といわれ(経典には明確にそう書かれたものはないが、古くからそのように扱われてきた)、対として法会の本尊とされる場合もあった。

一方、善膩師童子は毘沙門天の息子である。この三尊を一具としてまつった例は、京都・鞍馬寺像などいくつか知られる。

 

3体とも像内銘があり、毘沙門天と吉祥天の銘文から、鎌倉時代後期の1289年に仏師賢光によって造像されたことがわかっている(善膩師童子の銘文は和歌らしきもので、解読できていないそうだ)。賢光作の仏像はこのほか、千葉県内でいくつか見つかっていて、この地域で活躍した地方仏師と思われる。

 

 

拝観の環境

事前に印西市役所で教えていただいた開帳の時間である13時半に着くと、ろうそく立てなど関係者が整備をする中、扉が開かれた厨子のすぐ前までいれていただいて、拝観させていただけた。

厨子中にあるため、中尊の頭頂部は見えないものの、外の光で明るく、よく拝観することができた。

 

 

仏像の印象

中尊の毘沙門天像は像高約140センチ、カヤの寄木造である。目、眉をいからせ、口をへの字に曲げて内なる怒りを巧みに表現している。しかしほっぺたのふくらんでいるさまなど、どことなくやんちゃな子どものような顔つきである。腰を少し曲げ、それにつられて鎧もわずかに斜めを向いているところや袖のひるがえりの表現など、写実を追及しているようで、ややバランスが悪い。毘沙門天を支える邪鬼は真横を向き、素朴である。

 

脇侍の吉祥天と善膩師童子は、各1メートル前後の像高、カヤの割矧ぎ造。吉祥天は美しい表情につくられ、静かに立つが、少々寸足らずな印象である。善膩師童子は箱(亡失)をささげ持ち、ほほえんでいると言いたいが、ほほえみというよりはこう笑しているようで、ややグロテスクですらある。中央の洗練された仏像にはないエネルギーが感じられて、なかなか魅力的な仏像と思う。

3躰とももとは彩色されていたと思われるが、現在は素地をあらわしている。

 

 

その他

この多聞院像以外の賢光作の仏像は以下の通り。

千葉市・天福寺の十一面観音像(1256年、33年に一度開帳の秘仏)、匝瑳市長徳寺の不動明王像(1257年)、市原市・長栄寺の十一面観音像(1264年、丑年・午年の秋に開帳)、印西市・来福寺の薬師如来像(1285年、毎年7月7日開帳、問い合わせは印旛歴史民俗資料館へ)、印西市・西福寺の不動・毘沙門像(無年紀)、印西市・瀧水寺の十二神将像(無年紀)、大多喜町・東福寺の薬師如来像(無年紀)。

天福寺の像からこの多聞院の像まで30年以上の開きがあり、ひとりの仏師の若年期から円熟期までの造像作品がひとつの県内に残っているというのは大変珍しい例である。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』14、中央公論美術出版、2018年

『印西市の仏像 印西地域編』、印西市教育委員会、2014年

『ふさの国の文化財総覧』2、千葉県教育委員会、2004年

『房総の神と仏』(展覧会図録)、千葉市美術館、1999年

『日本仏教彫刻史の研究』、久野健、吉川弘文館、1984年  

 

 

仏像探訪記/千葉県