浄瑠璃寺の諸仏

  吉祥天、薬師如来、大日如来の各像は開扉日に注意

住所

木津川市加茂町西小札場40

 

 

訪問日 

2012年1月8日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

木津川市観光ガイド・木津川市の文化財

 

 

 

拝観までの道

JR奈良駅、近鉄奈良駅より浄瑠璃寺行き奈良交通バス(急行112系統)で終点下車。または、JR関西線加茂駅より木津川市コミュニティバス当尾線で「浄瑠璃寺前」下車。

 

奈良交通バス   市内を走るコミュニティバス

 

 

拝観料

300円

 

 

お寺のいわれなど

浄瑠璃寺の山号は小田原山という。このあたりがかつて小田原と呼ばれていたことによる。木津川市のコミュニティバスに「西小」「東小」というバス停があるが、この「小(お)」も小田原の略である。

浄瑠璃寺は、9躰の阿弥陀如来像を本尊とすることから「九体寺」という別称を持つが、かつては西小田原寺とも呼ばれていた。東小田原寺と呼ばれていた随願寺というお寺もあったが、こちらは廃寺になってしまった。

浄瑠璃寺、随願寺、さらにその東側にある岩船寺、これらの寺々の南側にあった鳴河寺(善根寺=廃寺、その後身が奈良市の応現寺か)は、かつては興福寺の影響下にありつつも、町なかの大寺院のあり方にあきたりない聖たちによって発展していったお寺である。

 

浄瑠璃寺の沿革は、寺に伝わる『浄瑠璃寺流記事(るきのこと)』(『浄瑠璃寺流記』)という史料によってかなりよく知ることができる。

それによると、本寺の創建は1047年。義明上人が阿知山大夫重頼の支援を受けて寺を開いたという。残念ながらこの2人がどのような人物であったかは不詳。史料には「本堂の屋根を1日で葺いた」とあるので、小規模なお寺として発足したのであろう。

 

ところで、浄瑠璃寺の「浄瑠璃」とは薬師如来の瑠璃光浄土をさす。9体の阿弥陀仏をまつることで有名な浄瑠璃寺ではあるが、揺籃期には薬師信仰の寺であった。史料にも、1107年に本仏・薬師如来などを西の堂に移したとあり、もとの本尊が薬師如来像であったと明記されている。

翌1108年に新たな本堂が完成し、落成供養の導師は東小田原寺の迎接房経源がつとめたとある。この経源という僧は、非常に熱心な阿弥陀信仰の持ち主であった。

すなわち、創建からおよそ半世紀がたったこの12世紀初頭、それまでの本尊薬師如来像は別堂へと下げられ、阿弥陀如来像を本尊とした阿弥陀信仰の寺への転換がなされたのである。

 

1157年、本堂が「西岸の辺」へと移される。これが現在の浄瑠璃寺本堂である。

その間の大きな事項として、恵信(えしん)僧正の入寺がある。

恵信は摂政や関白をつとめた藤原忠通の子。興福寺の別当職をめぐって同じ摂関家出身の僧に先を越されたことに憤慨し、隠遁したらしい。恵信にとって不遇の日々だったのだろうが、浄瑠璃寺にとってはこれが転機となり、寺観は急速に整えられていった。具体的には、お寺の中央の池が整備され、本堂がその西側に移って、西方極楽浄土を模した姿、今日の浄瑠璃寺に近い形ができあがったのである。

ただし、わからないこともある。たとえば、池の西側に移される以前の本堂はどの位置にあったのか。浄瑠璃寺はまさに山間の小さな空間にすっぽりおさまるようにしてある寺なので、ある程度の大きさの堂を置ける場所は限られる。しかし、それ以前本堂があった場所の遺構は見つかっていない。

 

 

9体の阿弥陀仏ついて 1

平安時代の後期から末期というこの時期、権門は競うようにして大きな仏像、たくさんの仏像をつくった。その最たるものが三十三間堂の千体の観音像である。そして、このおそるべき数量主義の造像に対応できる技法が寄木造であったわけである。

 

それより昔、ひとつのお堂に同じ種類の仏像を複数安置するということはあまりなかった。しかしこの時代になると、阿弥陀如来像を複数像つくって並べるということが盛んとなった。

阿弥陀仏は、臨終を迎える人が生前にどのような行いをなしたかによって9つの形式で来迎するとされたので、それにちなんで9体の阿弥陀仏像を並べて安置するということが流行した。記録からは、30ほどの九体阿弥陀堂がつくられたことが確認されるが、その中で唯一現存するのがこの浄瑠璃寺の本堂である。

 

このお堂は、正面11間(柱と柱の間が11ある)の横長の建物である。池をはさんだ三重塔の側からは、その美しい姿をのぞむことができる。江戸時代前期に瓦葺きに変えられる以前は檜皮葺きであったというから、今よりさらに落ち着いたたたずまいだったのだろう。

 

周囲の1間は庇であるので、身舍(もや、お堂の中心部分)は9間ということになる。9躰の阿弥陀仏はその1間ごとに安置され、柱と柱の間にきれいに仏像がおさまっている。脇尊は半丈六だが、中尊は周丈六(小さめの丈六仏)で、そのために中尊の安置された中央の1間は大きくとられ、また天井も高く設けられている。

 

各尊の前には供物台(古いものらしい)がある。像はその向こう側の低い須弥壇上に安置されている。特に脇尊は、近い距離感で拝観できる。

堂内はライトもあるが、全体に暗めである。正面が障子となっているので、外の光も若干は入ってくる。東面しているので、午前中の光がよいように思う。

 

 

9体の阿弥陀仏について 2

中尊の阿弥陀如来像は、像高220センチほどの坐像。寄木造。来迎印の阿弥陀像である。

基本的には定朝がつくり上げた「定朝様式」の範疇の仏像と思われるが、平等院鳳凰堂本尊(定朝作であることが唯一確実な仏像)とではずいぶんと雰囲気が異なる。顔つきは、まん丸く張った顔に目を見開き、鼻も大きくつくって、その表情には何ともいえない力強さがある。これは、平等院鳳凰堂像には見られないものである。

なで肩だが、上半身は大きく、一方脚部はかなり低い。

台座は当初のものだが、華やかな光背は後補である。ただし光背上の4躰の飛天は当初の作であるらしい。

 

脇仏の8躰は、北側(向って右側)から1号、2号などと無粋に呼ばれたりもする。像高はすべて140センチとほぼ揃い、定印、衣の流れも流麗で、いかにも定朝様の仏像という感じである。

ところが、そばでじっくりと見ていくと、意外にも1躰ごと雰囲気は異なっている。例えば螺髪の大きさ、ほおの張り、首のつくり、腕の構えのゆったり感、膝の張り、襞の太さ、全体的な安定感など。

向って右側から4番め(すなわち中尊の隣)の像は、多くの解説書に「中尊に近いすぐれた出来ばえである」と書かれているのだが、写真で見る限りそれほどの違いはないように思っていた。しかし、なるほど実際に見ると、この像には伸びやかさと安定感がある。

中尊と脇尊、また脇尊間の作風の違いが意味するものは何か。時間的なずれがあるのか、また各担当仏師の力量や個性の差によるものなのか等、いくつもの説が出されている。また、中尊は来迎印、脇尊は定印の印相でつくられたのはなぜなのかについても、定説をみない。

 

 

四天王像について

お堂の四隅でにらみをきかせる四天王像だが、残念ながら浄瑠璃寺本堂の四天王像は4躰揃っていない。

多聞天像は京都国立博物館に、広目天像は東京国立博物館に寄託されて、持国天、増長天がこのお堂の南隅に縦に並ぶようにして安置されている。

像高は約170センチとほぼ等身大で、このお堂の高さからするとかなり大柄であり、もともとは別のところにあったのではないかといった可能性も指摘されている。

 

それはともかくとして、この四天王像の出来ばえもすばらしい。

各時代の四天王の代表をあげるならば、奈良時代は東大寺戒壇堂の塑像の四天王像、平安前期時代は東寺講堂の一木造の四天王像と私は思っているのだが、いかがであろうか。そして、平安時代後期を代表する四天王像はといえば、この浄瑠璃寺の四天王像をあげたい。

頭部は小さく、プロパーションがよい。忿怒の形相は生き生きして、力強いが、平安後期の好みを反映して誇張を避け、ほどほどの表現におさめている。

袖は翻って、動きを表現するが、全体的には静的というか、落ち着いた感じである。邪鬼までもがおとなしく踏まれているようで、なんだか可愛らしい。

安定した立ち姿だが、腰高で、少し斜めから見るとややバランスが悪いところもあるようである。

 

注目すべきは彩色で、非常によく残る、腕や腰にさまざまな文様や、切り金を見てとることができて、この時代の色、形の洗練された造形の様子がわかる。

 

像は薄暗い場所に立っている。前方の持国天像については、見る位置からの距離も比較的近く、斜め下に補助的な照明を置いてくださってあることもあって、まずまずよく見ることが可能である。

 

 

本堂のその他の仏像

浄瑠璃寺本堂には、このほかに地蔵菩薩像(平安時代)、吉祥天像(鎌倉時代)、不動三尊像(鎌倉時代)が本堂内に安置されている。

 

地蔵菩薩像は、中尊向って右側に立つ。像高は約160センチ。ヒノキの寄木造。特徴としては、左手を下げて与願印を示すこと。地蔵菩薩は左手に錫杖を持つことが多いが、何も持たないこの姿は、古式である。

 

吉祥天像は秘仏で、彩色鮮やかな像として大変人気が高い像である。毎年1月前半と春秋の季節に厨子を開く。

像高は90センチほどの立像で、ヒノキの割矧(わりは)ぎ造。『浄瑠璃寺流記』に、鎌倉前期の1212年に「吉祥天奉渡本堂」という記述がある。本像はこの時に造られ、本堂に安置されたものと考えられている。

木製の可憐な冠、ふくらんだ袖口、裾と右腕では巻いた着物の厚みが不思議な形で表現されていて、面白い。正面で結んだリボンが大きく開いて下がり、さらに下半身の衣は複雑な意匠をしている。

全体の美しさとともに、細部の豊かな表現が魅力的である。

 

不動三尊像は、お堂の北の端に安置されている。鎌倉末期の1311年に建立された護摩堂の本尊だった像と考えられている。

中尊の不動明王像は像高約1メートルの立像で、怒りの表情や下半身の衣の様子がやや大味な感じがする。脇侍の2童子は像高各50センチ余りで、生き生きとした雰囲気をもち、ファンが多い。ヒノキの寄木造。

 

 

三重塔安置の薬師如来像

浄瑠璃寺はもともと薬師仏を本尊として創建されながら、阿弥陀信仰の寺へと転換していったということはすでに書いたが、それでは当初の本尊の薬師如来像はどうなったのであろうか。

 

浄瑠璃寺は北側に門があり、三方は山に囲まれている。中央の池をはさんで、右側(西側)に阿弥陀堂(本堂)、左側(東側)に三重塔が向かい合っている。

三重塔は平安時代末期頃のもの。史料によれば、1178年に京都の一条大宮から移されてきたものであるとわかる。

当時の貴族の日記に「百塔を巡礼した」という記事がある。この時代の京都には、百基に余りある塔が建ち並んでいたのである。しかし、今や京都市中には平安時代まで遡れるの塔はひとつとして存在しない。まさに諸行無常であるが、中にひとつだけ残ったものが、浄瑠璃寺に移築されたこの三重塔なのである。ただし、一条大宮にあったとだけしかわからず、何というお寺の塔であったかは分からない。

 

塔の高さは約16メートルと小ぶりで、品のいい塔である。特色としては、初層内は柱のない空間となっていることがあげられる。多くの塔にある4本の柱(四天柱)がなく、また各層の中心を貫く心柱も2層からの立ち上がりとなっているためである。そのために初層はある程度の広さが確保されている。

その中心に、平安時代後期の薬師如来像が安置されている。

像高約90センチの坐像で、割矧ぎ造。定朝様の仏像以前の古様を示し、洗練されているというよりは硬い印象の像で、これこそが浄瑠璃寺創建時の本尊であろうと考えられている。

表面の漆箔や彩色、また光背も後補だが、台座はほぼ当初のもの。

 

普段は扉を閉ざすが、正月三が日と春分、秋分の日、また毎月8日に開扉され、薬師如来像を拝観することができる(好天の日に限る)。

ただし、塔の内部は暗く、細部まではよく見ることが難しい。西面しているので、光が入る晴天の午後であれば、比較的見やすいかもしれない。

 

 

灌頂堂の大日如来像について

浄瑠璃寺には本堂、三重塔以外にもすばらしい仏像が伝来している。

大日如来像は、本坊の一角にある灌頂堂という小さなお堂に安置されている。その存在が知られるようになったのは比較的最近のことである。

 

かつて撮られた写真を見ると、後補の漆箔に覆われ、鈍い印象であった。

近年(2005〜2006年)、東京藝術大学にて解体修理が行われ、その際に後補の表面は取り除かれた。これによって、本来のシャープな姿がよみがえった。

 

像高約60センチだが、髪際から計ると約45センチの坐像なので、3尺像ということになる。ヒノキの割矧ぎ造、玉眼。智拳印を結ぶので、金剛界大日如来である。

この仏像は毎年1月8日〜10日までの3日間だけ公開されている。

灌頂堂の仏間に安置され、照明もあり、よく拝観できた。拝観料は本堂拝観とは別で300円。

 

顔はきりりとりりしく、膝の衣も緊張感がある。まわりの雰囲気まで引き締めているような、そんな力強さを持つ像である。

まげは高く結い、脚部は自然な起伏をつくりだす。

胸の前で組んだ両手も自然な構えである。しかし、円成寺の像と比べると、若干組んだ手が胴に近いのか、円成寺像が作り出している空間の生かし方のようなものはない。また、小さな像であるということもあってか、全体の貫禄のようなものは円成寺像には及ばないようにも思う。膝の高さも若干低く、衣の襞もややおとなしい感じではあるが、逆にそれがこの像に気品をもたらしているようにも思う。

 

 

さらに知りたい時は…

『南山城の古寺巡礼』(展覧会図録)、京都国立博物館ほか、2014年

『京都南山城の仏たち 古寺巡礼』、京都南山城古寺の会、2014年

「浄瑠璃寺厨子入吉祥天像と解脱上人貞慶」(『てらゆきめぐれ』、中央公論美術出版、2013年)、小林裕子

「浄瑠璃寺伽藍再考」(『仏教芸術』318)、冨島義幸、2011年9月

『新装版 大和の古寺』7、岩波書店、2009年

「浄瑠璃寺大日如来像について」(『仏教芸術』301)、佐々木あすか、2008年11月

「浄瑠璃寺灌頂堂大日如来坐像保存修復報告」(『東京藝術大学美術学部紀要』45)、籔内佐斗司. 高宮洋子、2007年12月

『浄瑠璃寺』(『新版 古寺巡礼 京都』2)、佐伯快勝・立松和平、淡交社、2006年

「浄瑠璃寺九体阿弥陀像の制作年代について」(『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要』4)、井上英明、2003年1月

『浄瑠璃寺・岩船寺』(『週刊古寺をゆく』17)、小学館、2001年6月

「浄瑠璃寺の九体阿弥陀如来像について」(『近畿文化』583)、関根俊一、1998年6月

「浄瑠璃寺九体阿弥陀像造立考」(『仏教芸術』224)、大宮康男、1996年1月

『浄瑠璃寺の四天王像』(展覧会図録)、京都国立博物館、1990年

『浄瑠璃寺と南山城の寺』(『日本の古寺美術』18)、肥田路美、保育社、1987年

『大和古寺大観』7、岩波書店、1978年

 

 

仏像探訪記/京都府