法金剛院の阿弥陀如来像

  定朝様式の仏像の代表作

住所

京都市右京区花園扇野町49

 

 

訪問日 

2010年11月29日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

京都観光Navi

 

 

 

拝観までの道

JR山陰線の花園駅下車、駅の北側の丸太町通りを渡ってすぐ。

 

 

拝観料

400円

 

 

お寺のいわれ

このあたりは平安貴族の山荘があったところらしい。法金剛院のはじまりは、桓武天皇の重臣、清原夏野の山荘をその死後寺としたことからという。双丘寺と称したが、JRの駅名にもなっている花園とは、このお寺が花々で美しく彩られていたことから生まれたのだそうだ。

9世紀なかば、文徳天皇が伽藍を整えて、天安寺という寺名を与えた。その後衰退したものの、12世紀前半、鳥羽中宮の待賢門院が復興し、法金剛院と改められた。

記録によると、丈六阿弥陀仏をまつる西御堂と御所、さらに南御堂(九体阿弥陀堂)、三重塔などがつくられ、女院の死後には東御堂が加えられた。池を配して浄土世界を表現した壮大な伽藍だったそうだが、その後応仁の乱、震災などで衰え、近代には鉄道の敷設によって境内が狭められた。

戦後になり、庭園が復原されるとともに、旧本堂を礼堂に、その後ろに耐火建築の仏殿を設けて、仏像を移した。

 

 

拝観の環境

仏殿は若干暗めの照明。堂内で拝観できるが、結界があるためにやや離れての拝観である。

 

 

仏像の印象

仏殿中央に安置されている阿弥陀如来坐像は本格的な定朝様式の仏像で、像高は220センチ。定印。やや小ぶりな丈六、すなわち周丈六像である。

落ち着いた雰囲気、丁寧に並んだ螺髪、整った顔立ち、堂々とした上半身と、極楽浄土のあるじとしての貫禄を十分にあらわしている。衣文は美しいが、流麗というよりはやや硬い感じがある。

台座は当時のもので、蓮弁には細かな浮き彫りがほどこされている。

 

上述のように、法金剛院にはかつて西御堂、南御堂、東御堂という3つの阿弥陀堂があった。この像がどの堂の仏像であったのか議論があったが、現在は若干の疑義を残しながらも、西御堂の本尊像(1130年、仏師院覚の作)であろうと考えられている。

 

 

院覚と待賢門院について

院覚(いんかく)は定朝の直系。定朝の後継者が覚助と長勢、覚助の後継者が院助と頼助、そして院助の子または弟子が院覚である。

院覚は1110年代から1130年代にかけて活躍した仏師である。その前半は主として摂関家の藤原忠実関係の造像を行ったが、その忠実が白河法皇の勘気をこうむって失脚をしたあおりで、院覚も一時不遇であった。

鳥羽上皇(のち法皇)の時代に移ると院覚も復活を果たし、鳥羽中宮の待賢門院のために法金剛院西御堂の阿弥陀如来像を造立したが、上述のとおり、これが今日の法金剛院本尊と考えられている。院覚作の仏像で唯一現存する像である。

待賢門院は藤原氏出身で、崇徳天皇、後白河天皇の母となるが、鳥羽院の寵愛が別の女性(美福門院)に移ると権勢を失い、法金剛院で出家した。

法金剛院の阿弥陀如来像は、待賢門院がその全盛の時代に発願し、失意の晩年に日々拝した仏像ということになる。

 

 

その他

阿弥陀如来像に向って右側に安置される地蔵菩薩立像(像高約130センチ)、僧形文殊坐像(像高約80センチ)は、一木造の像。法金剛院の前身寺院である天安寺の遺仏である可能性がある。

地蔵菩薩像は台座蓮肉まで、僧形文殊像は両足部までも一木で彫り出す。

ともに力強い衣の線が魅力的である。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本美術全集』4、小学館、2014年

『法金剛院』(『京の古寺から』9) 、淡交社、1995年

『院政期の仏像』、京都国立博物館、岩波書店、1992年

『待賢門院璋子の生涯』、角田文衛、朝日選書、1985年

『日本彫刻作家研究』、小林剛、有隣堂、1978年

『国華』941、1971年12月

 

 

仏像探訪記/京都市