東寺金堂の十二神将像

  近世仏像の躍動

住所

京都市南区九条町1番地

 

 

訪問日 

2011年3月27日、 2015年3月29日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

東寺ホームページ・金堂

 

 

 

拝観までの道

東寺(教王護国寺)の最寄り駅は、近鉄の東寺駅。駅前の九条通を西に5分くらい行くと、東寺の南大門(みなみだいもん)の前に出る。

JR京都駅八条口(南口)からは徒歩約15分。駅の南300メートルほどのところに東西に走る東寺通りという道があるので、それを西へまっすぐ行くと、東寺の門(慶賀門)に突き当たる。

 

 

拝観料

500円

 

 

お寺や仏像のいわれなど

藤原京から平城京へと都が移された時には、薬師寺など藤原京の寺院がこぞって平城京に移転した。ところが、平安遷都に際しては平城京の寺院は移転をさせず、平安京内には新たに王城守護、また国家鎮護のために東寺、西寺の2寺が建立された。

 

東寺の主要伽藍のなかでは、金堂が最もはやく完成したと考えられている。

本尊は薬師三尊である。

奈良時代には東大寺の盧舍那仏、各国分寺には釈迦像が本尊として安置されて護国経典が読まれたが、平安時代に入る前後から薬師仏を本尊とするお寺が多くなる。東寺も本尊として薬師像が選ばれている。

その後、東寺は空海に与えられ、真言密教寺院となる。薬師如来は真言密教においてはそれほど重要な仏とされないが、空海はすでに完成していた金堂の薬師三尊像はそのままとし、講堂において彼の密教思想を立体的にあらわすべく、群像を構成する。これら空海によって構想された講堂諸仏は、一部後世の作に入れ替わっているものの、今日まで伝えられている。

 

東寺は平安後期に衰退するも、中世以後、弘法大師信仰の寺として再び活況を呈するようになった。その信仰の中心となったお堂は、金堂や講堂のあるエリアの西北にある西院・御影堂(大師堂とも、空海の住房のあったあとといわれる)である。

東寺とともにつくられた西寺ははやくに衰亡したが、東寺は密教の寺、大師信仰の寺として、時代によっては盛衰を経験しながらも今日まで法灯を守り伝えているのである。

 

 

金堂本尊について

当初の金堂およびその本尊像は、残念ながら室町時代後期に土一揆のために焼失してしまった。現在の金堂と本尊は、江戸時代初期、豊臣秀頼による再興である。

広大な金堂の内部には大きな須弥壇がしつらえられ、丈六坐像の中尊と半丈六立像の脇侍像が安置されている。中尊の薬師像は。台座から光背まで10メートルもある巨像である。

近世の時期には一般に見るべき仏像はあまりないなどと言われがちだが、そのような中でこの薬師三尊像は大作であり、中世の仏像を彷彿とさせる力がこもる。

 

中尊は像高約290センチ。

顔はやや前傾し、螺髪の粒は大きめ、髪際はカーブする。やや平板な印象の顔つきで、施無畏、与願印の左右の手の動きも縮こまりぎみである。斜め横からの印象は堂々として、雄渾なおもむきがある。

豪華な光背には七仏薬師の化仏が取り付けられている。台座は裳懸け座。そして台座のまわりには十二神将像が並ぶ。

広い須弥壇上にはあいたスペースがあるのにもかかわらず、なぜせせこましく十二神将は中尊の下にかたまっているのかと思わないでもない。また、台座に十二神将を置く形式は、小像で台座に浮き彫りされる例はあるものの、ほとんど類例がない。

『東宝記(とうぼうき)』(南北朝時代に成立した東寺の記録書)によると、当初の金堂本尊像は光上に七仏薬師を、下に十二神将を伴っているとあるので、この裳懸け座の下の十二神将像は当初像の形式の踏襲であると思われる。

 

この薬師像は左手に薬壷を持たず、また古風な裳懸け座であり、左足を上にして足を組んでいる(薬師如来坐像は右足を上にして組むことが多い)。こうした像の特色から、また『東宝記』等の記述との比較からも、本像は古代の仏像にならって再興されたものと考えられる。

脇侍像はやさしく印象で、洗練された菩薩像という感じが強い。

三尊ともにヒノキの寄木造。

 

 

拝観の環境

十二神将像は、須弥壇の柵越しに見る。やや距離があり、一眼鏡のようなものがあるとよいかもしれない。

 

 

仏像の印象

十二神将像は本尊台座の四方に並ぶ。 像高はそれぞれ約1メートル。ヒノキの寄木造、玉眼。頭部に十二支の動物を標識としてつけている。 

前面に3躰、左右の面に4躰ずつ並んでいる。本来は3躰ずつ4面に並んでいたのだろうが、北側の東西の1躰ずつがサービスなのか、左右にずれて斜めからなんとか見える位置に置かれているので、11躰を見ることができる。おそらく真北のまったく見えないところに子の神将像が安置されていると思われる。

北東に位置するのが丑神将、以後寅、卯、辰と来て、正面の3躰は巳神将、午神将、未神将像。そして西側の面に申、酉、戌、亥の神将像が安置される。

 

これら十二神将像もまた、近世像ながらなかなか魅力的な像である。

東南隅の辰神将像は戟を持って、今にも裳懸け座下から飛び出さんばかりの躍動的な姿であり、風を大きく受けて、胸ははだけて肋骨を見せる。その隣の巳神将は左手をかかげて上方を警戒するが如きで、「巳」にちなんでいるのか、その顔はどことなくぬめりとした表情であるのが面白い。顔の表情の豊かさでは、剣を持つ未神将もなかなかなものである。決めポーズの格好よさでは、酉、亥の神将像がいい。それぞれ姿勢、持物、鎧兜や履物を変え、群像としてのバランスに富んでいる。

 

薬師三尊像、化仏の七仏薬師像およびこの十二神将像を制作したのは、仏師康正一門である。康正は運慶の流れを汲むとされる仏師で、東寺大仏師職にあったが、この金堂諸像の制作時には若い子息である康猶に東寺大仏師職を譲っていた。しかし、全体を統轄したのは康正であると考えられる。

近年修復が行われた際に調査がなされて銘文が確認され、当時まだ二十歳前の康猶やその弟かと思われる康英が中心となって造営されたことが分かった。

 

 

その他(御影堂の生身供について)

境内の北西にある御影堂は、拝観料が必要となるエリアの外側にある。

南北朝時代の建築で、国宝。南側の厨子中に安置されている不動明王像は極めて厳重な秘仏。

一方、北側には弘法大師像がまつられている。鎌倉時代に運慶の子である康勝が制作した像で、2000年に国宝指定された。やはり秘仏だが、毎日6時からと、毎月21日にご開帳されている。 

 

毎朝6時からの開帳は、生身供(しょうじんく)という法要にともなって行われている。 

これは弘法大師の彫像に対してお食事を差し上げるというもので、鎌倉時代以来続く伝統ある行事である。 

 

この法要には一般の参拝客も参加できる。6時間前に御影堂の門前に着くように行くとよい。地元の信者の方は皆さん毎日ご参加されているらしい。 

6時ちょうどに合図のご詠歌が流れ、開門。皆さん合掌のあと、お堂の外陣へ。ややあって法要がはじまり、正面の厨子が開かれ、お坊さんがマスクをして、お像の前に一の膳、二の膳、お茶を運び、三拝して供える。 

最後に空海が唐より持ち帰ったという舍利(赤い布に包まれている)を、お坊さんの手で、参詣者ひとりひとりの頭と手にいただかせていただいて、行事は終了する。 

ただ、残念なことに弘法大師像は遠目でほとんど見えない。 

 

東寺ホームページ・法要のご案内

 

 

さらに知りたい時は…

『もっと知りたい 東寺の仏たち』、根立研介・新見康子、東京美術、2011年

『日本中世の仏師と社会』、根立研介、塙書房、2006年

『東寺の十二神将像』、東寺宝物館、1998年

『新東宝記』、東寺創建一千二百年記念出版編纂委員会、東京美術、1996年

 

 

仏像探訪記/京都市