大覚寺の五大明王像

  春、秋の名宝展で公開

降三世明王像
降三世明王像

住所

京都市右京区嵯峨大沢町4

 

 

訪問日 

2009年11月22日

 

 

 

拝観までの道

JR嵯峨嵐山駅北口下車、北へ徒歩約20分。

バスの場合、JR京都駅、阪急四条大宮駅・地下鉄烏丸駅、京阪三条駅から、市バスや京都バスで大覚寺行きが出ている。

仏像は霊宝館(収蔵庫)に安置され、春(4月・5月)と、秋(10月・11月)に開催される「名宝展」で拝観できる。(名宝展の日程は、大覚寺のホームページで確認してください)

 

大覚寺門跡ホームページ

 

 

拝観料

名宝展800円

 

 

お寺のいわれ

六国史のひとつ『日本三代実録』によれば、大覚寺は嵯峨上皇の死後30年余りたった876年、その山荘を上皇の皇女(正子内親王、淳和天皇皇后)が寺としたことにはじまる。開山の恒寂は淳和天皇と正子内親王の子で、もと恒貞親王といった人である。この親王は藤原氏の他氏排斥のあおりで廃太子とされた方であるが、それはともかく大覚寺はこのように皇室ゆかりの寺院として出発した。

鎌倉末期の仏教歴史書である『元亨釈書』によれば、恒寂は丈六阿弥陀仏をまつったというが、それ以外初期の大覚寺について知られることは少ない。

 

14世紀初頭(鎌倉時代末期)、後宇多法皇が大覚寺に移り住んだ。おそらくこのころには大覚寺は衰退していたのであろう。後宇多法皇はその再興を志した。

後代の史料ながら、後宇多法皇再建の大覚寺の様子を記したものによると、大沢池を南に抱いた大伽藍であったようだ(現在の大覚寺はその西側部分にあたる)。そののち、後宇多系の皇統と大覚寺の結びつきは極めて強くなり、この系統は大覚寺統とよばれた。この系統から後醍醐天皇が出て、吉野に下り南朝となるので、南北朝時代には南朝との結びつきが強く、その後も反室町幕府勢力が大覚寺を拠点にしようとするなど、このころの大覚寺は政争に巻き込まれることが多かった。

戦国時代にも戦火にあうなどしたが、連歌の会が開かれるなど文化サロンとしても機能した。

江戸時代に入ると本格的な復興が行われるとともに、ふたたび皇室から住職を迎えるようになった。

 

 

拝観の環境

拝観入口を入ると、主要な建物が渡り廊下でつながっていて、一周できるようになっている。

境内の東に位置し、大沢池に面してつくられている五大堂が大覚寺の本堂である。

五大堂の本尊は院政期の五大明王像だが、京都国立博物館への寄託を経て、現在は北側にある霊宝館(収蔵庫)に移されている(五大堂には戦後に新造された五大明王像が安置されている)。

霊宝館の中は明るく、拝観しやすい。五大明王像は1躰ごと厨子中に置かれているので、正面からのみの拝観となるが、間近でよく拝観できる。

 

 

仏像の印象

五大明王像は像高各50〜70センチと、比較的小さな像である。ヒノキの割矧(わりは)ぎ造または寄木造。1176年から翌年にかけて制作され、作者は定朝の流れを汲む円派の仏師明円(みょうえん)である。

院政期の仏像らしく、力強さよりも調和を重視した作風である。

不動明王は怒りの表情も抑えられて、穏やかな落ち着きある像。他の明王像は多面、多臂の上半身とどっしりとした下半身の衣の表現とで全身のバランスがよくとれて、そつなくまとめられている。他の時代の誇張的な表現や若々しく力溢れる造形の仏像と比べればややもの足りなく感じないでもないが、気品のある仏像である。

 

不動明王を除く4明王は、その姿や衣の表現が東寺講堂の明王像に近い(ただし東寺の像のような圧倒的な存在感はないので、一見したところ雰囲気はかなり違うのだが)。また、衣には伝統的な切金でない彩色による文様が描かれるといった新様も見られる。

ややもすれば古典研究を通じて革新的な仏像を生み出した慶派(奈良仏師)、それに対して前代の様式を継承するばかりで新味のない院派、円派といった大雑把なくくりがなされることがあるが、この像からは明円もまたこの平安から鎌倉へという時代の移り変わりの時期にあって、古典を学んで新たな造形を生み出そうとしていたことがうかがえる。

 

 

銘文をめぐって1

金剛夜叉明王と軍荼利(ぐんだり)明王の台座の裏に墨書銘がある。

金剛夜叉明王像の銘は日付、場所、僧と仏師名が書かれる。軍荼利明王像ではわずかに日にちの一部が読めるのみであるが、金剛夜叉明王の銘文の日時から約4ヶ月後を指す。

 

仏師名は明円である。明円は生年は不詳。1166年に故摂政のための造仏を行ったというのが記録に現れる最初である。父は忠円という仏師、住まいは京の三条京極にあったという。

1178年には高倉天皇中宮の徳子(平清盛の娘)の安産祈願のための造仏、さらに源平の合戦の中で南都が焼かれたのち興福寺の復興が開始されると、その中でも最も重要な金堂諸仏の造像を任された。こうした事績から明円は皇室、摂関家、平家に関する造仏を担当し気を吐いた第一級の仏師であったことが明らかである。

没年は当時の貴族の日記から1199年ないし1200年と分かっている。

これほど華やかな活躍をした明円だが、実際に彼の作品として今日に伝えられている仏像はこの大覚寺の五大明王像だけである。

 

金剛夜叉明王像の銘文によると、1176年11月16日の日付とともに「被奉始之」とある。軍荼利明王像の日付はその4ヶ月後であるので、軍荼利像の方は完成の日なのかもしれない。5躰の像を4ヶ月で完成させるというのは短い期間のようだが、明円は円派の総帥として多くの仏師を率いていたであろうし、比較的小像のことでもあり、不自然ではない。

 

 

銘文をめぐって2

金剛夜叉明王像の銘文に出てくる僧は三河僧正賢覚で、「灑水(しゃすい)」を行ったとある。この灑水というのは、御衣木(みそぎ、仏像の用材のこと)を浄める儀式をいう。それを「七条殿弘御所」にて行ったとある。七条殿は後白河法皇の御所のことで、皇室ゆかりの大覚寺のための造仏の儀式を行う場所としてはまことにふさわしい(厳密に言えば、この仏像が当初から大覚寺に安置されたという確たる証拠はないのだが)。

 

賢覚の名前の横には「法眼明円造進之」とある。この「造進」の意味が難しいが、明円は仏師としてこの仏像を制作しただけでなく、像の寄進者でもあるということらしい。この院政期には朝廷や院に代わって造寺造仏を行い、それによって官位を受ける成功(じょうごう)という一種の買官制度が横行するが、この仏像もこのような成功の一形態によってつくられたことがわかる。

短い銘文の中に、さまざまな歴史的な背景が籠められているとつくづく感じさせられる。

 

 

その他1(収蔵庫内の他の仏像について)

収蔵庫にはこのほか、もう一組の五大明王像、毘沙門天像、愛染明王像、十一面観音像が安置されている。

愛染明王像は30センチほどの比較的小さな像。台座部分に鎌倉末期の1328年をあらわす墨書銘がある。

 

もう一組の五大明王像は坐像の不動尊で1メートル半、立像の軍荼利明王像などは2メートルを越える大きさである。やはり東寺講堂の五大明王にならってつくられているようだが、こちらはいかにも大味な造形である。軍荼利明王と水牛に乗った大威徳(だいいとく)明王は鎌倉時代だが、他の3明王は室町期の補作らしい(大威徳明王の像内に納入文書があり、中に1501年の年記の入ったものがある。この年に軍荼利明王と大威徳明王を修理し、他の3明王を新補したと考えられる)。

 

 

その他2(大沢池畔の石仏について)

境内の東、大沢池(おおさわのいけ)は嵯峨上皇の山荘以来の人工の池であるという。周囲が1キロあり、周遊できる。池の畔には平安後期ないし鎌倉時代の十躰余の石仏が残る。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本美術全集』4、小学館、2014年

『平安時代後期の彫刻』(『日本の美術』458)、伊東史朗、至文堂、2004年7月

『平安時代彫刻史の研究』、伊東史朗、名古屋大学出版会、2000年

『嵯峨御所大覚寺の名宝』(展覧会図録)、 京都国立博物館、1992年

『院政期の仏像』、京都国立博物館編、岩波書店、1992年

『日本彫刻作家研究』、小林剛、有隣堂、1978年

「院政期の造像銘記をめぐる二、三の問題」(『美術研究』295)、水野敬三郎、1975年

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇 』4、中央公論美術出版、1968

 

 

仏像探訪記/京都市