仁和寺の阿弥陀三尊像

  春、秋(各2ヶ月弱)に霊宝館公開

仁和寺金堂
仁和寺金堂

住所

京都市右京区御室大内33番地

 

 

訪問日 

2009年11月22日、 2016年4月29日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

仁和寺ホームページ・文化財

 

 

 

拝観までの道

京福電鉄北野線の御室仁和寺駅からは、仁和寺の仁王門が見える距離。

JR山陰線の花園駅からは北へ15〜20分。

バスは京都駅からはJRバス(高尾方面行き)または市バス26番で「御室仁和寺」下車すぐ。ほかに京阪三条や阪急大宮からも市バスがある。

 

仁王門を入って左が御殿(本坊)。御殿の勅使門の前を右折すると霊宝館がある。曲がらずに真っすぐ行くと、中門の先に五重塔と金堂がある。

霊宝館は春秋、各2ヶ月弱ずつ開館。春期は4月1日から5月第4日曜日まで、秋期は10月1日から11月23日まで。

 

 

拝観料

霊宝館500円(御殿と共通で800円)

 

 

お寺のいわれ

仁和寺の建立を発願したのは平安前期の光孝天皇で、886年のこと。しかし光孝天皇はその完成を見ることなく亡くなり、次の宇多天皇によって888年、金堂の供養が行われた。はじめ西山御願寺(ごがんじ、皇室の私寺のこと)といったらしいが、仁和という元号の時の創建ということで仁和寺と呼ばれるようになった。なお、仁和寺の第一世は、譲位後この寺に移り住んだ宇多法皇である。

その後の仁和寺門主(住職)は皇室出身者が占め、平安中期に天皇の御願寺として円融寺、円教寺、円乗寺、円宗寺(合わせて四円寺といった)が次々と仁和寺の寺内の造られるなど、高い格式と広大な寺域を誇った。数十もの子院を擁していたともいわれる。

 

12世紀前半に火災で金堂をはじめ多数の堂宇が焼亡したが、ただちに復興。しかし室町時代に入るとその繁栄にも翳りが見えはじめ、子院の多くは廃絶した。さらに応仁の乱の戦火で壊滅的な打撃を受け、当時の公家中御門宣胤(のぶたね)はその日記『宣胤卿記』で「悉く廃墟」と述べている。

江戸時代前期にようやく復興の機運が盛り上がり、皇居(御所)が幕府の援助で建て替えられるとその旧殿舍が移築された。現在の仁和寺金堂はこの時移築された旧御所の建物である。また、南大門、中門、五重塔はこの時の造営である。

 

 

拝観の環境

こうした大火、また荒廃していた時期が長かったにもかかわらず、仁和寺には古代、中世の仏像や宝物が数多く残され、それらは霊宝館に納められている。

仏像は霊宝館の一番奥のスペースに安置されている。

その中央には、平安中期作の阿弥陀三尊像が置かれる。照明は暗めで、また高い位置にあるために見上げるようになるが、近くからよく拝観できる。

 

 

仏像の印象

阿弥陀三尊像の中尊阿弥陀如来像は像高約90センチの坐像、ヒノキの一木造で、背中からくりを入れている。定印。全身は金箔で輝くが、これは後補。

脇侍の観音、勢至菩薩は像高120センチ余りの立像。中尊と同じくヒノキの一木造で、背中からくりを入れる。手(曲げて前に出している方の前腕部、下げている方の手は手首先)を除いて台座の蓮肉の上半分まで一材から彫り出している。

 

三尊に共通しているのは、ずんぐりした印象である。丸顔で、肩を張り、上半身はすらりとは伸びない。特に脇侍像は下半身がどっしりとした印象である。

頭は中尊の肉髻は大きく、また脇侍像のまげも大きく高い。さらに後世の金箔が鈍い感じを加えていて、全体に重たい印象である。

 

しかしじっくり拝観していると、なかなか充実した像であると分かってくる。頬のふくらみや耳のカーブ、中尊の髪際の曲線や脚をくるむ衣の襞(ひだ)の緊張感、脇侍像の腰のひねりや片足をほんのわずか前に出す間合い、条帛や天衣(てんね)の自然な流れ、意外に豊かな上半身など。とても優れた造形である。仏に対してやや失礼な表現だが、見ているとどんどん好きになっていく仏像と思う。

脇侍像は銅板を切ったものを髪に用いているそうで、珍しい。

なお、脇侍像の造形は和歌山・道成寺の千手観音像の脇侍像と共通点があるとの見解がある。

 

 

阿弥陀三尊像の造立年代

創建時の仁和寺本尊について、直接的に述べた史料は存在しない。ただ、12世紀前半の大火および応仁の乱の戦火の際も金堂本尊は救出されたことが記録から分かっている。

12世紀の大火後の復興の様子が書かれた古記録には、本尊は丈六阿弥陀像と1丈の脇侍像であるという記述と、5尺の阿弥陀像と3尺の脇侍像であるとの記述、すなわち矛盾した2つの本尊のサイズが記されている。

2つの金堂が併存したり、2組の本尊があったりということは一般的には考えにくいので、どちらかが誤りであると考えるべきであろう。

 

5尺の阿弥陀像、3尺の脇侍像との記述の方をとるならば、現在の霊宝館の阿弥陀三尊像に近い大きさとなり(5尺像を坐像に直して2尺半で約75センチ。現在の中尊は約90センチだが、髪際からを計れば2尺半に近い。同様に脇侍像も髪際で計れば3尺5寸となる)、霊宝館の三尊像が当初本尊である可能性がある。

しかし、この阿弥陀三尊は、霊宝館に移される前は金堂内に客仏のようにして西側の須弥壇に安置されていた。このため、本来別の堂にあったのではないかという説もある。

12世紀に再建された時の仁和寺金堂は、五間四面で三面に礼堂がつくという大規模なもので、火災以前と同じ大きさで再建されたと仮定すると、この大きさのお堂の本尊としては丈六仏がふさわしいように思えないでもない。

 

一方、紺野敏文氏の「創建時仁和寺阿弥陀三尊像の造立年代の検討」(『日本彫刻史の視座』所収)は、古記録に断片的に登場する仁和寺旧本尊の姿を丹念に追い、それが現霊宝館安置の阿弥陀三尊像である可能性を追求するとともに、同時代の他の仏像との比較検討も丁寧に行っている労作である。こうした説を受けて、この霊宝館安置の阿弥陀三尊像こそ888年に創建された当時の仁和寺金堂本尊と考えていいのではないかとの意見が今日有力となっている。

そうであるならば、この像は清凉寺の阿弥陀三尊像(896年)とともに定印阿弥陀像の最古の作例であるということになる。

 

 

その他1

阿弥陀三尊像の左右には十躰あまりの彫刻が並ぶが、多聞天像は阿弥陀三尊像と同時に造られた金堂諸像のひとつであった可能性のある古仏。

愛染明王像は均整のとれた像で、平安後期の作。この時期盛んに愛染明王を本尊とする修法が行われたことが史料に見えるが、彫刻作品で平安後期にさかのぼるものとして数少ない遺例である。

ただし霊宝館の展示はその都度変わる(中央の阿弥陀三尊像は変わらず安置されていると思うが)。

 

 

その他2

現在の金堂本尊の阿弥陀三尊像と仁王門の仁王像は江戸前期再建時のもので、運節という仏師の作である。

 

 

さらに知りたい時は…

『仁和寺と御室派のみほとけ』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2018年

『もっと知りたい 仁和寺の歴史』、久保田康・朝川美幸、東京美術、2017年

『週刊朝日百科 国宝の美』24、朝日新聞出版、2010年2月

「仁和寺阿弥陀三尊像の宗教的機能」(『美術史学』28)、小野朋子、2007年

『日本彫刻史の視座』、紺野敏文、中央公論美術出版、2004年

『平安彫刻史の研究』、伊東史朗、名古屋大学出版会、2000年

『仁和寺大観』、法蔵館、1990年

『研究発表と座談会 仁和寺の仏教美術』、上野記念財団助成研究会、1989年

『仁和寺の名宝』(展覧会図録)、京都国立博物館ほか、1988年

「密教阿弥陀像から浄土教阿弥陀像へ」(『MUSEUM』386)、中野玄三、1983年5月

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代  重要作品篇』4、中央公論美術出版、1982年

「仁和寺阿弥陀三尊像の造立年代」(『MUSEUM』247)、佐藤昭夫、1971年10月

 

 

仏像探訪記/京都市